公共を考慮する思考の涵養

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 この国の基本的思考に「公共」の意識を涵養することが必要ではないかと常々思ってきた。



「私だけは、我が家族だけは損をしないように」だけで考えても暮らしやすくはならないことをどこかで共通理解する必要がある。社会全体が落ち着けば、それは私も我が家族も平和に過ごせる環境であることにつながる。



 そうなるために必要な意識が「愛」なのだと思う。



 「愛」とは、施すことでも憐れむことでもなく、相手を自分と同じ人間(生きもの)であると認識し相手の置かれた状況を理解し分けあえる物や事は分けあって、お互いが平和に共存できるように働く意識のことだと思う。



 この国に欠けているもの、それは「愛」のような気がする。



 どんなことも自分に損か得かのソロバン勘定だけで行動しているのでは人は幸せにはなれない。

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このページは、tsuyuが2023年2月15日 09:42に書いたブログ記事です。

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