数年前に亡くなった義兄は会うたびに太平洋戦争当時の話を繰り返しました。終戦当時10代だった彼は、広島に原爆が投下された日は岩国の工場に勤労動員されていて広島方面の異変に気付いたそうです。
その後は何年経ても、太平洋戦争当時の日本のことや戦没者のことが彼の脳裏から消え去ることはなく、むしろ、年々想いが強まる様子でした。
私も、対中国、対韓国、対ロシアに関して私が幼い頃に大人から聞いていた話とは異なった内容でかの国々から発信されるのを聞いていると複雑な想いが湧いてきます。決して良好な想いではありません。
義兄は、現在の世界の混沌と変化の兆候を知らずに亡くなったわけですが、現在も存命ならば、いまの状況にどんな憤りを語るのだろうかと、ふと思うことがあります。
歴史とは、必ずしも一つの事実を誰もが認めるものではなく、関連諸国に都合の良い解釈で創作されるものでもあることを、最近しみじみ思い知らされています。
「これが絶対正義だ」という考え方は、こと人間のすることにおいては通用しないのだと思い知るこのごろです。
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