『群衆心理』の内容は現状を理解することに役立つ

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以下、『群衆心理』より転載

ー第二節 幻想ー   p.139~p.141

 文明の黎明期以来、諸民族は、常に幻想の影響を受けてきた。幻想の創始者たちのためにこそ、最も多くの寺院や祭壇が築かれたのである。かつての宗教上の幻想にせよ、今日の哲学上、社会上の幻想にせよ、この恐るべき主権者が、地球上に相ついで栄えたあらゆる文明の先頭に立っているのが見いだされる。

(中略)

 「もし、宗教によって鼓吹されたあらゆる芸術上の作品や記念物を、博物館や図書館でうち砕き、それらを聖堂内の石畳に投げつけるならば、人間の壮大な夢の痕跡(あと)として、何があとに残るであろうか?」と、ある著者が、私(ギュスターヴ・ル・ボン)の説を要約して書いている。「人々がそれなくしては生存できない希望と幻想との分け前を人々に与えること、これこそが、神々や英雄や詩人たちの存在理由である。しばらくのあいだは、科学が、この役目を引き受けるかのように見えた。しかし、科学が利用に餓えた人々の心のうちで、危ぶまれるようになったのは、科学が、もはやあえて十分に将来を約束しなくなり、さりとて十分に嘘をつくこともできないからである」と。

 前世紀の哲学者たちは、幾世紀ものあいだわれわれの父祖たちが生存のよりどころとしてきた宗教上、政治上、社会上の幻想を打破することに、熱心に身をささげた。哲学者たちは、それらを打破することによって、希望と忍従との源泉をも涸渇させてしまったのである。そして、抹殺されたまぼろしの背後に、人間の弱さに対して峻厳で憐憫を知らぬ盲目的な自然力を発見したのである。

 哲学は、大いに進歩したにもかかわらず、民衆を魅了するに足るだけの理想を少しもまだ提供することができなかった。幻想は、民衆にとって必要欠くべからざるものであるために、民衆は、灯火に向う昆虫のように、幻想を提供する修辞家のほうへ本能的に向うのである。これまで、民族進化の大きな原動力は、真実ではなくて、誤謬であった。今日、社会主義が、その勢力を加えつつあるのは、そえが、今なお活気のある唯一の幻想にほかならぬからである。科学的な論証といえど、社会主義の前進を少しも妨げない。その主要な強味は、大胆にも人間に幸福を約束するほどに事物の実相を知らぬ人々に擁護されている点にある。現在、社会上の幻想が、過去の累々たる廃墟の上に勢力を揮い、そして将来も、この幻想につきまとわれるのだ。これまで群衆が、真実を渇望したことはなかった。群衆は、自分らの気にいらぬ明白な事実の前では、身をかわして、むしろ誤謬でも魅力があるならば、それを神のように崇めようとする。群衆に幻想を与える術を心得ている者は、容易に群衆の支配者となり、群衆の幻想を打破しようと試みる者は、常に群衆のいけにえとなる。

(転載ここまで)

 少し引用文が長文になりましたが、私はこの部分で、現在、中国やアフガニスタンで進行中のできごとに思いが至りました。

 この『群衆心理』という本は100年近く前のフランスで書かれました。その内容が今この世界で起きていることへの理解の助けになることに驚いています。いえ、驚くことはないのかもしれません。人間社会というのは、目に見える暮らし方の変化とは関係なく、根本的に変わらない部分があるし、それは人間社会の成長とか後退とかとは関係ないことかもしれないと思うのです。

 下線太字部分は私(露草)が施しました。衆議院総選挙がスタートしたいま、日本国民という群衆が候補者や政党の掲げる公約をどう判断するかにも関係することかもしれないと思ったからです。

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このページは、tsuyuが2021年10月19日 16:05に書いたブログ記事です。

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