大変な時代ですね。さまざまな問題が新型コロナウイルス・パンデミックで一挙に表面化して、世界は今まさに混沌としているようです。
そんな中日本は、オリンピック組織委員会会長を務めていた元総理(この名称も使いたくないような人物だと私は思っていますが)の発言で窮地に立たされています。
「女性の多い会議は時間が長引く・・・」というお考えのようですが、女性の視点や感覚が当然のように社会に認められていないからこそ話が長くなるということもあります。なぜなら、(こういう意見を言うのは過去のこういうことが不都合だと常々感じていたから云々・・・)というところから説明していかないと理解を得られないし、発言はさせてやるが採用はしないぞという空気の中で女性が真剣に語ろうとすれば経緯説明で話が長くなることもあります。しかし、女性の発言も社会的立場を得られているならば、女性が話を長引かせることなく開催会議への提案の一つとして比較検討しながら議事進行はスムーズに進められたはずです。
「わきまえている女性」?確かに物言わぬ女性はわきまえていると思う男性はこの日本には多いです。「わきまえている」のではなく「わきまえさせられている」だけなんですがね。私の経験で思い出すのは義兄のことです。典型的な日本男児的発想をする人でした。会話の途中で妻が発言しようとすると間髪入れず「お前は黙ってろ!」と義姉の意見を封じていました。その度に目前に座っている私が嫌な思いをしていたことを、おそらく義兄は気付かなかったのでしょう。座に居合わせる皆がそれぞれの意見を述べ合う談論風発であってこそ次につながる関係が構築可能だと、ずっと思っていました。
まあ、社会の底辺で「わきまえぬ女性」として長年生きてきた私が思うのは「違い」を「優劣」で判断することから問題は発生しているのではないかということです。「違い」はあくまで「違い」であって、どちらが優っているか劣っているかの判断材料とはなり得ないのです。違うからどちらかを正当化しようとするから無理が生じるのであって、一つの目標を達成するために力を合わせなければならないのであれば、違いを並べて検討して妥協案を構築するしかないのです。そうであってこそ、より多くの納得を得られる結果が得られるのです。その為にはどちらか一方の意見を封じる圧力があってはならないのです。それは男女間に限らず立場の上下間であっても言えることです。
性別、年齢、職業、人種等々「違い」は至る所にありますが、それらを「優劣」という観点で捉えるから差別やイジメが発生するのだと思っています。
何かが違っていても個人は個人として発言する権利はあるしその発言も傾聴されるべきだと思います。
そうした原点を再確認しなくては個人それぞれが生存の実感を味わえない世の中が進行していくのではないでしょうか。
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