とかく群れの中に溶けこみたがる傾向のある日本人。
絵画でいうなら「絵具」の中に溶けこんで、絵筆(得体のしれない力)でキャンバスに絵を描いているようなもの。それも色鮮やかで細かいけれど調和のとれた模様ではなく一色のベタ塗りが理想ときている。ベタ塗りに溶けこまない色や材質は弾かれる。そんな絵のどこが面白いのか、どこが美しいのか。しかも、ベタ塗りして乾燥させたら最後、間違い個所や修正箇所の手入れは簡単ではない。
砂絵というのがある。「彩色された砂粒」で描く絵のことだ。砂絵の場合は面でも可、立体でも可、自在に表現することができる。全体で見れば確かに一つの絵画作品であるが、構成している色は一粒一粒独立した砂粒なのだ。砂絵は修正しようと思えば砂をばらして初手からやり直すこともできる。
私はずっと「社会と言うのは砂粒の集まりである」また「砂粒の集まりでなくてはならない」と思っている。しかも、その砂粒の一つひとつには固有の色があり、それらの色が集まって調和するのが社会である。調和が上手くいかなければ美しい絵になるのは難しい。絶妙な調和を実現するためには、それらの砂粒が自発的または外的な力のサポートを受けながら収まるべき場所を自由に選択できる空間が保障されていなければならない。
「同じ」であることを前提に他者を見る日本人。「同じ」でなければ「上」を尊び「下」を蔑む日本人。自分より相手を下に見たがる傾向の強い人が多いこの国。幼児からそうした社会の標的として生きづらさを抱えて生きてきた私は、何とかならないものかとずっと思い、そうした差別的で疎外的な環境に抗ってきた。
結果は、どうにもならなかった。
ところが、今回の新型コロナウイルス感染蔓延の中で、そうした日本人の自立性が問われる事態になっている。
この国の将来をどう描けばよいのか視界不明瞭な現在、パレットの中で次の絵筆(権力)の動きを待つしかない絵具としてではなく、自在に転がって「ああでもない、こうでもない」と最良の場所を探して行く砂粒でありたい。
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