「呆けたカントに『理性』はあるか」 大井 玄:著、 新潮社:発行
そもそもこの本は、認知症の患者に胃ろうの選択を問うた時、
果たして有効な答えが期待できるのか?という問いかけから話が始まる。
認知症を発症している患者は、責任あるまともな判断が難しいと思われている。
しかし、本当にそう決めつけて良いものだろうか?
胃ろうを施すということは、
口から食べるという楽しみを奪うことであり、
胃ろうを施してまで命長らえることを本人が望んでいるか否かの選択の問題でもある。
その判断を下すのは本人であるのが一番だけれど、
認知症患者の場合は、往々にして家族の判断にゆだねられ、家族は悩むことになる。
最初は、胃ろうという医学的な話に終始するのかと思いきや、
読み進むうちに「理性と情動」という、人間の思考や判断の話へと深まってきた。
デカルトやカントは、人は理性的な動物であると位置づけ、
他の動物とは一線を画する存在であり、他の動物には理性は無いとする。
しかし、作者は、デカルトやカントの定義に異を唱える世界中の学者の見解を引きながら、
人間を含む生物の「生きるための判断の根源」を解説している。
最近、ちょっと込み入った論理が展開される文章を読むのが苦手になっている私なので、
何度も前文に立ち返りながら読み進めているところ。
生存や快不快、好き嫌いなどを判断する能力を情動とし、
概念的な理屈・理論を考える能力を理性とした場合、
理性が先か情動が先かとなると、情動により理性もコントロールされるという。
したがって、
カントやデカルトが人間よりも下位に位置づけた動植物も、
生存に好ましい環境や自然状況を選んで命をつないでいることを見れば、
彼らにも情動によってコントロールされる「意志」が存在している。
などなど・・・・・・
この本を読むと、高学歴で高い地位や世間の評価を手中にしながら、
人はなぜ悪事や愚行を行うのかが見えてくるような気がする。
国内にとどまらず世界的にも混乱の極みと言える現代にあって、
人間の探究には、さまざまな意味で興味深い本だと思う。
そうそう、肝心の胃ろうの話、
認知症で、日常のコミュニケーションが難しい患者であっても、
「胃に穴を開けて栄養を入れても良いですか?」と問えば、
ほとんどの患者が顔をしかめて首を横に振るのだそうだ。
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