一時期、ある種の仕事を指して「3K」などと表現されていたと思う。
「3K」の説明は こちら。
本格的な肉体労働からオフィスなどでの細々した雑用など、誰かがやれば皆が助かる仕事。
皆が少しずつ心がければ、全体の動きがスムーズに気持ちよく運ぶ作業。
それらは大概、肉体的な労力を要する場合が多い。
簡単に言ってしまえば、椅子に座ってパソコン画面を眺めているだけでは片付かない仕事である。
例えば、コピー用紙のストックが少なくなったら用品倉庫から運んで来るとか、
事務書類や仕事関連の書籍などを棚に整理するとか、
ちょっとしたオフィス環境の整理整頓とか、
やるつもりもないし、できない人が多くなったような気がする。
朝、出勤するとすぐにパソコンを立ち上げたら、
一日中画面をにらんで座っていれば恰好がつくという時代になって久しい。
見つめているパソコン画面に何が表示されていようと、傍から指摘糾弾されることはない。
周辺環境整備など、「3K」人間にやらせておけばいいという意識の変化は、
結局、一人一人の自立した人間としての能力の退行にしかならない。
上記にリンクしたコトバンクの説明にあるように(貴族化・清潔化という消費文化)が定着した結果、
勘違いな人間たちは日常的な身の回りの始末さえできなくなって、
テレビなどで紹介されるようなゴミ屋敷だの汚部屋だのという有様が増えるというつながりか。
消費文化は、品物の消費のみならず、他人の労力の消費も含んでいる。
私は夫亡きあと、子育てと家計を支える収入との両立を探って、
5-6種の仕事を転々とした挙句、いわゆる「3K」に属する仕事に就いた。
あれから30数年、職場の変遷を振り返ってみて、
一番の転換ポイントはパソコン作業の導入だったような気がする。
(私の仕事はパソコンを使わない業務)
事務仕事の殆どがパソコンに切り替わる前は、
事務仕事の人間であっても、自分たちの仕事に関連する体を動かす作業を最低限はやっていた。
ところが、パソコン作業が行き渡ってからと言うもの、仕事といえばパソコンとにらめっこになっている。
事務仕事の人間たちは、一日中パソコンの前から動かない。
広い世界の片隅の一職場を観察しての感想を一般論にしてはいけないのかもしれないが、
どうも、私の職場観察が特殊ではないような社会現象の昨今。
パソコンは人間の生活を助ける道具の一つではあっても、
基本は、自分の頭を使い体を動かして日常生活を送らねば、
人間は日々退行してゆくのみのような気がしてならない。
人は皆が皆、召使にかしずかれる(貴族)になれるわけではないし、
(清潔)な暮らしだって、誰かが提供してくれるのを当てにしているだけでは実現しない。
コメントする