人が「負けたくない」と思う時には、必ず自分より優位であると認める対象がある。
その対象が、自分の信念や理想に近い、もしくは同じである場合は張り合うことに意味を感じるのかもしれない。
しかし、自分はその対象の在り方を認めていないにもかかわらず、
自分の今が対象より恵まれていないと思う口惜しさから「負けたくない」と意気込むのなら、
もう一度自分の心の奥を覗きこんで考えてみたほうが良い。
(同じ土俵に立つな)とも言われる。
人としてあるまじき所業と誰もが認めるのに、勢力を誇る輩は存在する。
そして、幾ばくかのおこぼれに与かれるのではとの姑息な思惑からすり寄る人間も多い。
価値観を同じくする者同士なら、それはどうぞご勝手に。
ただ、弱いものを食い物にするような下賤な所業は、いずれ人の軽蔑するところとなること必至。
よしんば、運よく表だった軽蔑の対象にならなくても、薄汚い精神は立ち居振る舞いや人相に如実に反映される。
先ごろ亡くなった詩人であり漫画家であった やなせたかしさんはこう言われたそうだ。
「相手をやっつける正義というものは無い。食べる物にも困っている人に食べ物を分け与えるという正義は有る」と。
誰かをやっつけて自分がその上に立ったとしても、
勝った負けたの価値観で起こした行動の結果は空しいだけではないだろうか?
その勝ちは、必ずや次の「負けたくない」人間によって取って代わられるに違いない。
共に喜びあえる、共に涙することができる、この共感力こそ養うに値するものだと、私は思っている。
もし「負けたくない」という言葉を使うのなら、
自分の心の中の邪な部分にこそ「負けたくない」と思うべきだろう。
競うべき相手は自分の周囲ではなく、自分の内部に潜んでいるのだと心したい。
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