自分でも最近、明らかな自覚となっているのが「鈍化」である。
感受性の鈍化、身体能力の鈍化、社会性の鈍化などなど。
それは、あらゆる面においての老化現象として仕方がないことだろう。
ただ、その変化を自覚して、自らを律することができるかどうかに、
これまでの一個人としての生き方やものの考え方の集大成が表出する。
再び、山口県周南で発生した事件に関してだが、
彼は故郷に戻った時には40代で地区の最年少、
村の行事の役割や環境整備・雑用などを引き受けていたという。
人は誰かの力を借りる時、最初は感謝していても、度重なると当たり前になりがちだ。
そこからさまざま注文や文句が出たりする。
彼も、地域の為に貢献しても「感謝の言葉もなかった」とこぼしていたようだ。
月に一度、新聞屋さんが届けてくれる薄い冊子がある。
その中に、高知県で医師をされている小笠原望さんという方のエッセイが連載されている。
地域性の関係で、内容は小笠原医師が診療する老人の登場が多い。
昨日は、92歳にしてなお
「私にできることがありましたら、なんなりと言ってくださいませ。遠慮なさらずに。本当に皆様におせわになります」
と繰り返し口にする老婦人の話。
彼女は、苦しい息の下でありながら「私にできることが・・・」と付け加えるのを忘れなかったという。
この「私にできることがありましたら、なんなりと言ってください」の気持ち、これが重要なのだと思う。
間違っても
「これまでこれだけやって来たのだから、それ相応にやってもらうのは当たり前」
だの
「年下の者が動いて、自分に楽をさせるのは当たり前」
だの
「お金を払っているのだから、どんな無理もきけ」
などと
老いを理由に、相手の感情や状況への配慮もなく厚顔を決め込むのは如何なものか。
老化にともなってできなくなることは多くなるが、せめて、感情の柔軟性くらいは保つようにしたいと思う。
若い者も年寄りも、
同じ社会で同じ空気を吸いながら生活している生きものだということを忘れるほど鈍化したくないものだ。
私も、「私にできることがありましたら、何なりと言ってください」の気持ちを忘れないようにしようと思う。
そして、
何か手を貸してもらうことがあったら、素直に「ありがとうございます」と言えるように心がけつつ年老いて行こう。
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