毎週火曜日の夜はNHK総合TVの「爆問学問」を楽しみに見ている。近年ほとんど得られなくなったと感じる知的刺激を受けることができる。知的刺激といっても、いわゆる何かをものにするための"お勉強"ではなく、ひたすら身近なことを考えつくすだけの、言ってみればそこから何かの欲望を満たしてくれる方策が得られる知識ではなく、ただただ頭の中の充実だけの思考の活動に過ぎない。
振り返れば、昔はこうした議論や思考を、暇さえあれば、否、暇がなくともしていたように思う。「人はなぜ生きるのか?」という命題を掲げ、ああでもないこうでもないと語りもし考えもした。答えの出るはずもないこのテーマは、案の定、終生まで私の中では問われ続ける最大唯一のテーマとなりそうだ。
さて今日はドストエフスキー。「罪と罰」。ロシア文学者の先生と爆笑問題の会話の中に出てきた言葉(黙過=もっか)が、私の心に響いた。そうか、何を見てもどんなに悲惨なことが身近にあろうと、感情の揺れを見せずに淡々とやり過ごす人々の行為に気味悪さを感じていたが、それらの行為はこの(黙過)という言葉で表現されるのか・・・と。どうりで、このごろ発展性のある語り合いがちっとも成立しないわけだ。何を語りかけても自分の得にならない話には乗ってこないで(黙過)の人が多いものなあ・・・。より深い絆の結ばれようがない時代。
ドストエフスキーを簡単に論じられるほど読み込んではいないので、ここで知ったかぶりをできる私ではないが、今一度作品を読み返してみたくなった。老いの入り口に立つ現在の私は、若い頃とはどのように違った受け止め方をするのだろうか。
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