いま世界は、過去100年間の歴史に類を見ない危機的状況にあるらしい。たかだか半世紀ちょっとしか生きていない私にも、理解や予測の不可能な事態に直面しているらしいことはなんとなく分かる。
これはアメリカのサブプライム何とかに端を発する経済悪化が引き起こした混乱以前から、人類社会にじわじわと広がっていた精神の荒廃が一挙に表面化したのだとは言えないだろうか?
「人間が生きているのは何のためだろう?」。おそらく人間しか抱かないだろうこんな疑問が何度も頭をよぎる。淡々と生きて淡々と死んで行くには、人間社会はあまりにも複雑になり過ぎた。「ただそこに居るだけでいい」などと、余裕のある時にはさも訳知り顔で言ってしまうけれど、「ただそこに居るだけ」さえも難しい時には「なぜ生きていなくてはならないのだろう」と考えてしまう。
ひとつ言えることは、人の心を真に充足させるのは物や金ではないということ。たとえ今、それらを十分に得て満足しているかに見える人々でも、彼らなりの空疎感にはさいなまれているに違いない。人の心を救えるのは人の心しかないと分かっていても、物や金への執着が強ければ、人は純粋かつ誠実に他人に相対しようとはしない。できれば自分の得になるように損をしないようにという人間関係の持ち方をする。そういう人間関係ばかり模索する人が増えると社会は常に疑心暗鬼となり、あそこにもここにも人間の顔をしたキツネとタヌキばかりの化かし合い社会と成り果てる。
世間的には "普通" の人でも平気で他人を陥れるようなことをする。そして意識的にか無意識でか、そ知らぬ顔で要領よく世渡りをして行く。そこには道徳も倫理も人道も無い。まさに、醜い身勝手が洋服を着ているのだと言える。
今の世の混迷を救うのは「信実・誠実」の復活しかないのではないかと思うのだが、絶望的に悲観してしまいそうになる。
先日、NHKテレビで作家・辺見庸さんの話を視聴したのだが、その中で辺見さんが取り上げられたカミュの「ペスト」の一節(絶望に慣れることは絶望そのものより悪いことである)という言葉が頭にこびりついて離れない。
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