騒々しいテレビ・ラジオ番組でささくれ立った心を静めるために、私は就寝時にNHKFM「ラジオ深夜便」に耳を傾けながら床に付く日が多くなった。そのまま明け方までラジオのスイッチを切らずにいることもある。深夜に目覚めた時、物静かに語りかけてくる年配アナウンサーの声に安堵する。選択される音楽も、私の心の張り詰め具合を逆なでしない。着実に進行する "老い" を意識しながらも、もう無理して若い世代の文化に食指をのばす気持ちにはならない。
2・3日前の明け方、ふっと目覚めてラジオの声を耳にしたところ、そこで淡々と語られている内容に戦慄を覚えた。それは、娘を殺人事件で喪った父親の話だった。話は途中からだったが・・・
ある日その家族は警察から、娘さんが犯罪に巻き込まれ被害者となった旨知らせを受ける。仰天して家族で警察に駆けつける。父はその時点ではまだ(娘は傷害事件の巻き添えで怪我を負ったのだろうか)程度の想像しかしていなかったと言う。ところが現実は、既に変わり果てた姿となって警察の死体安置所に横たえられている娘と対面する運命が待ち受けていた。
意外にも娘の死に顔は安らかであったが、母親は見てしまった、娘の首につけられた刃物の傷跡を。父は語る「あの時、せめて布でその部分を隠す配慮が警察にあったなら・・・」と。なぜなら、その後、母親は娘の首の傷跡を見た事によるショックから精神の変調をきたす結果になったから。夜、突然起き上がり、「誰かが刃物を持って切りつけてくる!」と叫んだりするようになったのだそうだ。
警察における娘の亡骸との対面はあっという間で、すぐに警察官から「この後司法解剖がありますから」と促されて退室せざるを得なかったらしい。あまりにも想像を絶する事態に遭遇すると、人間は対応の思考が一時空白になりその場に立ち尽くすしかない。そんな時、次の行動のきっかけを誰かに促されるとそのままに動いてしまう。この究極の異常事態に直面したこの家族もそうだったのだろう。(あの時こうしておけば、ああするべきだった)と考えるのはずっと後になってのこと。
淡々と事実を追って一部始終を語る男性の話は体中が凍りつくような内容であった。
世情不安の昨今、理由不明の殺人事件が多発している。街を歩けば、否、在宅していてさえ、いつ誰に襲われるかわからないという社会に我々は暮らしている。自分が犯罪を犯さないことは当たり前すぎるほどの人間としての心構えだけれど、一方では、いつ犯罪被害者になってもおかしくないとの心構えまでしなくてはいけないのかと、遣る方ない暗澹に心を囚われている。
コメントする