私の携帯電話は古い。かれこれ5?6年同じ物を使っている。それで何の不自由もない。電話を携帯できる便利さの恩恵には十分に預かっている。カメラはデジカメを持ち歩くし、戸外でまでインターネットやテレビを視るつもりはないし、地図に関してはあらかじめ自宅で調べて外出すれば事足りる。携帯電話は、もっぱら電話機能と手紙代わりの近況報告メール機能のみの使用で、それも頻繁とは言い難い。
ここ数日、某携帯電話会社から発売された新しい製品に関するニュースが喧しい。何でも時差の関係で、日本の店頭販売が世界で一番早かったとか。購入希望者の長蛇の列がテレビ画面に何度も映し出された。「一番乗り」を狙う人は昔も今も変わらずいるものだ。
これからどれほどの人たちがこの機能満載の機器を所有するのだろう。そしてどういう風に暮らしの中に取り入れていくのだろう。もはや私には想像もつかない世界である。ちなみに、幸いなことに私にはこの機器に対して微塵の興味も無い。
外出先からの連絡手段として公衆電話では不自由を感じ、ポケベルに始まりPHSから携帯電話まで、私はいち早く生活手段として取り入れてきた。それは、親戚縁者が近くにいない土地で、子供二人を家に留守番させて働く母親には必要な物だった。
我が家にパソコンを購入しインターネットに接続するのも、比較的早い時期だった。これは、やがてコンピューター無しでは何もできない世の中が来るような予感があったことによる。その時、私は既に時代については行けないだろうが、息子二人はコンピューター音痴であっては何かと困るだろうと思ったことによる。
その後あっという間にこの分野(携帯電話・PC)の機器は普及し進化し、短期間に新製品に切り替わっては買い替えられていく時代になっている。それはまるで服飾関係の流行のようだ。ただ、服飾関係では昔の流行が再び顔を出すことがあるようだが、この分野にそれは無いかも知れないが。
私は近頃、携帯電話やパソコンに関しては限定的な使い方のみで、それ以上のものを求めなくなった。あまりにも情報や時間に追われ過ぎて、暮らしに余韻やゆとりが無くなるように思い始めたからだ。世間の情報も、いち早く知らなければ困るような暮らしはしていない。生活の利便に役立てる範囲でならこの両者とも使える環境は備えているつもり。
今回の新機種発売騒動以前から、現代人は所有の欲望を満たすことで自己の空虚を埋めようとする傾向にあるのではないかと、私は感じている。対象が物でも人でも、「これは私のもの」と実感できなければ安心しないような焦燥感があるのではなかろうか。
人が精神を充実させて生きていくために最低限持つべきものとは、いったい何だろう?
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