今日は近隣マンション合同で子供の神輿担ぎでした。これは毎年恒例の自治会行事です。私は顧問役員なので協力参加しました。
↑ 子供用の神輿です。
昨年は、私が長として計画から実行に携わったので、今年の進行状況を見ていると言いたいことが次々に浮かんできます。
○ 拡声器の音が小さいので違う拡声器にしては如何?
○ 子供の集合写真を撮影する際、カメラに皆がおさまるように子供を並べては如何?
○ 道路進行の際は、センターラインを越えないようにして下さい・・・
○ 神輿の担ぎ棒の4ヵ所を大人が持つことになっているのですが・・・
○ 置いてある神輿には触らないように子供に注意して下さい
これらを遠慮がちに進言したのですが、聞き入れてもらえなかったのです。「どうでもいいじゃないか、たかが子供の神輿担ぎだもの」という雰囲気で無視されてしまいました。集まった大人も子供も、何となく集まって何となくウロウロして何となく解散しました。
地域行事とは、それを運営する大人が率先して子供に社会性の見本を見せる良い機会だと思うのです。大人に導かれながら子供は安全に楽しく行事に参加する術を身に付けて行くのではないでしょうか。
集合場所の近くにこんな花が咲いていました。そうです「クチナシ」です。今の時代、社会に疑問や意見を抱いたとしても、表だって発言しないでいることが賢明なのだよと、まるで私に忠告してくれるような花ですね。「クチナシ→口無し」でいなさいと。
状況が変っているのに慣習を持ち出す古株。
一人でばたばたとして大変がっている新人。
中堅のわたしはどちらにつくわけでもなく卑怯にもくちなしを決め込んでいる・・・。
まりりんさん、世代の連携というのは、ほんとうに難しいですね。
私はどうしてもクチナシを貫けません(トホホ)。
しばらく黙っていた挙句に意を決して発言しても、
その場で、「そうだね、そうだった」と認められることは滅多にないんですよ。
でもね、私の発言をキッカケに状況が動き始めることはあります。
その場合、最初の発言者はだいたい冷や飯食らう立場ですが・・・
最初に行動するか後から行動するかではなく、
全体が望ましい方向に動いて行こうとする波に逆らうことだけは
したくないですよね。
漱石の『草枕』の冒頭の一文を思い出しました。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
ですよね???
>私の発言をキッカケに状況が動き始めることはあります云々。。
それでヨシ!といたしましょう。
なんの動きも無いよりは、はるかに気持ちが良いですから。
しかし、なんの動きも無い時クチナシは考えものです。大いにクチを開くべきです。
それが”世代の連携”を生むきっかけになります。
でなければ世代間の距離は開くだけだとは思いませんか?
ついでに5・15事件の犬養首相の言も思い出しました。
『話せば分かる』(古いねぇ}
『草枕』の冒頭部分は、私も頻繁に思い出します。
年齢を重ねるごとに古典を読み返したくなります。
昔も今も、考えることは同じだなぁ?と痛感する次第です。
発言してもしなくても同じ70ー80年の一生なら、
言いたいことは言っておこうと思うこのごろ。
あと何年生きているんだろう>私。