信じる対象を間違えないようにしないと

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 安倍元首相が銃撃に遭ってお亡くなりになりました。

 犯人の動機は特定の宗教団体への恨みだったと報じられています。母親がその宗教にのめり込んで寄進を続けるうちに家庭が破綻してしまったということだそうですね。


 似たような話は、私も子どもの頃から大人の会話から聞き知っていました。

 
 ある未亡人(ご主人は太平洋戦争の最中に戦病死)が先祖代々手入れして大事に守ってきた山を売ってそのお金を宗教団体にそっくり寄進したという話がありました。

 また、当時発足したばかりの新興宗教の勧誘がしつこいという話も大人の会話から見聞きしていました。今ではその宗教団体は巨大化し世界進出もしているようですが、私は忌々しきことだと苦々しく思っています。


 自身の体験では、36歳で夫を喪った際に近づいてきたのは新興宗教信者とマルチ商法の人間でした。どちらも我が子と同年齢の子を持つ母親でしたが、5年間の夫の闘病中に声もかけてくれたことすら無い人間でした。

 その後も、夫の葬儀を依頼した関係各所から情報提供されたらしい生命保険外交員や墓石会社や仏壇会社などが入れ代わり立ち代わり目の前に現れ、なけなしのお金が消えていきました。

 どちらも、身寄りのない土地で生きることを決意した私の無知や無縁に付け込んできた人たちだったと今ではわかりますが、当時は、即座に警戒心をもって拒絶できるだけの知識や経験が足りないばかりに、利用されてしまいました。


 しかし、「人を頼らない」「独りで考える」という私の幼い頃からの生き方がその後の軌道修正をさせたように思います。

 こうした独立独歩の生き方は、多勢を力とする日本社会では大変生きづらいのです。

 最近「孤独」が社会問題として取り上げられることが増えてきました。「孤独」を、避けるべき否定的な現象ととらえる人が多いようですが、それは違うと思います。辛く寂しい「独り」は社会から疎外されていると感じるからです。では、その社会とは集団とは自分が真に属したいと思う対象でしょうか?



 ブログという形式では説明しきれないほどの想いを抱えてはいますが、ここで言いたいことは、日本人はもっと『自己の確立』『個別の人格尊重』を考えなおし学びなおさなければならないのではないかということです。

 誰かに頼ろう集団に埋没しようという気持ちが強ければ、自分の何かが奪われることを意識しなくてはならないでしょう。



 『信じるべきは自分』であって、他は自分の信念に照らし合わせて是非を判断することです。その為には、信じるに足る自分を涵養することが必須なのです。果たして戦後の日本にそのような教育が為されてきたでしょうか?現在の日本の劣化はそこに問題があったのだと、私は常々感じています。



 世の中にはさまざまな苦悩や困難に直面する場面が転がっています。そんな時に「信じる対象を間違えないこと」と、私は強く警鐘を鳴らしたいのです。

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このページは、tsuyuが2022年7月13日 06:54に書いたブログ記事です。

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