事件報道に接する度に思うこと

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 際立って良いことをしたら世間に名前が発表されて多くの人に知られます。一方、悪いことをしても名前が公表されて広く世間に知られることがあります。良いことで有名になる事は誇らしいことでしょうが、その反対の場合は、生活の場所や機会が狭められることになりかねません。


 凶悪な犯罪の犯人にも親がいたでしょう。その名前には親の願いや想いが込められているはずです。そのことを考えるのです。その名前が報道で多くの人の目にさらされることを本人はどう思っているのでしょうか。

 また、このごろ虐待を受けて亡くなる子供のニュースが多いようですが、被虐待児の子供の名前にいわゆる"キラキラネーム"が多いように思うのは偏見でしょうか。我が子の誕生の時には一生懸命考えて命名したはずですが、どうしてそういう結果になってしまうのか...


 名前というのは"無形の自分"であり一生(死後も)共にするものなので、身体を大切にすると同じように大切にしたほうが良いのではないかと、事件報道に接する度に思うのです。

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このページは、tsuyuが2021年8月31日 10:57に書いたブログ記事です。

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