「西田幾多郎 無私の思想と日本人」 佐伯啓思:著 新潮新書
通勤の車中で少しずつ読み進み、読み終えた。
子供の頃から本に線引きしたり書き込んだりすることは極力避けてきたが、
今回は、鉛筆を片手に気になった部分に線を引き、空白にメモ書きしながら読んだ。
そんな中に、強く納得できる部分があったので、その部分を書き残しておこう。
以下、引用 (p.238 ~ p.239)
(前略)
確かに西田哲学には毒があります。落とし穴というべきかもしれません。あるところで西田自身も書いていますが、自分の書いたものは超のつく難解だといわれる。だけど、どこかある箇所をつかんでそれが分かれば、すべて分かってくるような種類のものだ、というのです。面白い自己評ですが、まさにそのとおりで、突然、ある時に分かったような気がするのです。すると、あのわけのわからない文章で、彼が何をいおうとしているのかが、読み解けるような気になってきます。そのうち、あの文体でしか書けないのではと思えてくるのです。秘境的で謎解き的なところがある。
しかしそうなると、この「分かった」という境地の方が大事になって、それを説明する必要がなくなってしまうのです。もしも分かりやすく説明できるのなら、そもそも西田自身があんな文章は書かなかったでしょうから。
しかしこのことは思いのほか大事なことで、これは西田哲学の抱えた問題というより、「日本の思想」そのものにかかわることなのではないでしょうか。日本に西洋のような体系的な哲学や思想が生まれなかったひとつの理由は、日本では「ものを考えること」が、世界の認識へ向かうのではなく、多くの場合、人が生きる上でのある境地を目指すものだったからです。仏教の教えや禅もそうであり、かなり学問的な儒教にもその傾向があり、俳句や和歌もその方向を向きました。
(後略) ーーーー 引用文内、太字処理と下線は、本ブログ筆者による ーーー
なんとなくでも「分かった」と思えば、それを改めて文字化する必要はないともいえる。
ただ、なぜ私がブログに日々の思索を公表するかといえば、
同様に思索する誰かに私の表現した言葉のどこかが引っ掛かかり、
「そうなんだぁ」ということになればとのささやかな想いからに他ならない。
とにかく、西田幾多郎が「哲学の小道」を歩きながら思索を繰り返したように、
誰もが自分自身の「哲学の小道」を歩むしかないのだと、そう思う。
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