二度と無い一年間が、今年もいよいよ最終日。
年齢を重ねるごとに時間の大切さを痛感する度合いが深まる。
昔、新年を迎える前に必ず親が買っていたのが(高島暦)の一冊。
これは農業に携わる家では農事暦としても使われていたようだが、生まれ月による運勢の記述が大半。
その巻末の方には、干支別の人生指針のようなページもある。
そこに書かれていた自分にかかわる内容で覚えていることは
「皇帝の手に位置する干支ゆえ手先器用で技芸・芸術に秀でる」
「晩年は幸せ」
という二つの文章。
器用であるということは、秀でるとまでは言えないけれど、まあまあそうだろうと思える。
そして私の晩年は・・・
まだあの世に逝っていないので、どのあたりが晩年になるかは未定だけれど、その近くの年齢になってきたことは間違いない。
過去を振り返るとさまざまなことがあった。
世間大多数の同世代に比べると、底辺近くをウロウロしながらの人生だったと思う。
ではそうした過去がいま現在の私に不幸せ感を抱かせているかと言うと、そうではない。
大変なことを数々乗り越えた分だけ、現在の平穏に対する幸福感は二倍にも三倍にも跳ね上がっている。
「若いうちの苦労は買ってでもせよ」とはこのことかと、ほぼ人生後半になったからこそ確信できるのである。
幸せの尺度や条件は人によってさまざまだけれど、
あれも無いこれも無いという条件の中で、
それでも投げ出すことなく、
手元にある条件を最大限生かす工夫をしながら地道に誠実に日々を暮らしてきたからこそ、
どうってことないささやかな出来事にも大きく喜べるということなのだろう。
「禍福はあざなえる縄の如し」
このごろなんだか死ぬことばかり意識した文章が増えてきたなあと思うが、
考えてみるとこれまでずっと
「最悪の事態は不慮の死。それさえ覚悟していれば何にでも挑める。だからどんな難事からも逃げ出さない」
を信条に事にあたってきた。
誰の著作だったか忘れたが(死ぬ気満々)という言葉が印象に残っている女性作家の本があった。
この(死ぬ気満々)という言葉が妙に私の心に響き、共感した。
(死ぬ気満々)(メメント・モリ=死を想え)、これまで死は常に私の傍に寄り添って在り、死は私の唯一の友であった。
だからこそ、眼前の困難に勇気を持って立ち向かい乗り越えてくることができたと、
今の私が断言することは許されると思う。
昨今、いじめを苦にして自ら命を絶つ若者がいるが、そうした人たちに伝えたい。
死ぬのはいつでも死ねる、嫌でもいつかは死ぬ、でもそれは一度きり。
だったら、死んであの世に生まれ変わったのだと思ってこの世の地獄を渡ってごらんと。
この世の(血の池地獄)なら対岸に泳ぎきったところにあるかもしれない穏やかな景色を、
生きて自ら確かめられる日がきっと来るから。
私がそう言える根拠は、あらゆることに『永遠』はないという事実を確信しているから。
(血の池地獄)を懸命に泳ぎ渡る間に、人間は、より強くよりたくましくなっていくから。
ま、こうして何だかんだと言いつつ振り返りつつ、人生の残り時間を消費している。
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