「なぜ日本人は学ばなくなったのか」 齋藤孝:著 講談社現代新書
今、読書中の本。
時代を追うごとに、漠然と感じ始めていた日本人の変容について、
私だけが感じていたのではなかったということを裏付けてくれるような内容。
知識や教養に敬意を持たなくなった風潮が、社会全体の劣化を招きバカ社会化している。
社会を構成している人間たちが「学ぶ」ことへの意欲と敬意を蔑(ないがしろ)にすればどうなるか。
まさに、現代日本の変容に大きな影響をもたらしたであろうアメリカ文化について本書は言及している。
以下、これまでに読んだ内容から一部分を抜粋引用してみたい。
*************(引用開始)
p.77~p.79
教養に対して「ノー」を表明する国・アメリカ
アメリカの若者文化はカウンターカルチャー(対抗文化)でした。ボクシングのカウンターパンチと同様、自分が無から建設するというより、現在あるものに対立する、ないしは否定する形で成り立っていた文化運動だったわけです。
対抗の対象は、一言でいえば「伝統的な知」、つまりヨーロッパの古典主義です。たとえばギリシャ・ローマの伝統であるギリシャ哲学や、シエイクスピアやゲーテといった全世界的な人類の知的遺産と考えられている権威あるものを指します。それらに対して、アメリカの若者文化は「ノー」を表明したのです。
(中略)
フランスの政治学者トクヴィルは、アメリカ人は書物を有する国民ではなかったと指摘しています。それに、互いの権利を承認するための訓練は不要、哲学も不要、国民性に見出されるあらゆる違いも捨象でき、アメリカ人には一日でなることができる、と述べています。
ではフランス人に一日でなれるかというと、それは無理です。デカルト、パスカル、モンテスキュー、ラブレー、ラシーヌ、ルソーといったものに対する教養がなければ、フランス人とはいえない。そういう敷居の高さが、一員になろうとするときのヨーロッパにはあるわけです。
しかし、アメリカ人には一日でなることができる。簡単にいえば、アメリカ人になるのに教養は必要ないということです。つまり、教養に対するリスペクトがない。その国民の基本的なあり方が若者たちに正当性をもって主張されてしまったのが、1960年代アメリカの特徴だったわけです。
*************(引用終わり)
先の大戦後に生まれた団塊世代は、アメリカの若者文化の影響をもろに受けてきた自覚がある。
一方、我々の親世代には、まだまだ明治時代や大正時代の日本の精神構造が生きていた時代でもある。
その親の価値観を「古臭い」ものとみなして、積極的に自らをアメリカナイズしてきた戦後生まれの若者たち(つまり我々世代)。
我々(団塊周辺世代)には、対抗して否定しようとする対象として古い伝統的な国民性が存在したので、
アメリカ文化を取り入れるのは、ある意味「学び」だったとも言える。
しかし、すっかりアメリカ的社会が定着した頃、この日本に生まれてきた現代の若者には、
否定または肯定の対象として対抗する伝統的日本の精神文化が壊滅状態であると言えなくもない。
ある時期から私は、日本はアメリカの社会構造を5年・10年遅れで追いかけているのではないかと思うようになった。
この本の著者もそのような内容を記述している。
そしてまた、アメリカの社会で困った問題を引き起こしている事象に関しても後追いしている日本人について、
結果が見えているのに何故同じ道を歩んでしまうのかとも思ってきた。
アメリカの社会構造や文化が正しいとも間違っているとも私に言えることではないが、
いつの頃からか、歴史的にみて日本人はアメリカ文化には馴染めない精神構造なのではないかと思うようになっている。
現代日本の凋落は、太平洋戦争終結以来アメリカ文化至上主義でやってきたことによるところが大きいと感じている。
が、時すでに遅しなのかもしれない。
日本独自の文化伝統の継承は断裂している。
その責任は団塊世代周辺の我々にあるようで気が重い。
ただ、我々に選択肢があっただろうかと自問してみると、それは難しかったと思う。
なぜなら、戦後アメリカが日本に駐留して、この国の在り方の方向性を決めた時、
敗戦国としては抗いようのないことだったのだろうから。
思考や議論や学びの習慣が失せたとしか思えない現代日本社会に、
知識や教養に対する敬意と憧憬を抱く文化は取り戻せるのだろうか?
もはや社会に何らの影響力も行使できない年齢になって見えてきたこれらのことを、
耳にイヤホン、視線は絶えずスマホ画面上という、自分の世界に閉じこもる傾向の若い世代に、
このままでは危ういと、どうやって伝えれば良いのだろう?
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