「マタニティーマーク(ワッペン)を付けているのに乗り物で席を譲ってくれない」。
最近、そんな不満を訴える人やその意見を擁護する記事などを見かけるようになった。
マタニティーマークとは、
妊娠中の女性が人目に付くようにバッグなどにぶら下げている丸いワッペン。
確かに、妊娠中は体の変調著しく、いろいろ耐えづらい状況になることも多い。
それが傍目に見えない場合もあり、ワッペンで分かってもらおうとしたのだろう。
私も妊娠・出産は経験しているので、これらのことを理解するのに疎いわけではない。
しかし、私はこのマタニティーマークなるものに違和感が拭えない。
「私は妊娠しているのよ」と主張されても、
「だから?」「大切にしてくれっていうこと?」と切り返したい衝動がある。
思いやりを強要されているような不快感がある。
以前、電車の中でマタニティーマークを付けた女性に席を譲ったことがある。
譲られた女性は、しごく当然のことのように譲られた席に腰を下ろした。
会釈も礼の言葉も無く。
その物腰の傲慢さには、妊娠経験者の私も呆気にとられてしまった。
そして、後味の悪い記憶しか残らなかった。
近年、言葉にして自分の気持ちを伝えられない人が増えたような気がする。
我がマンションでも、朝夕のすれ違いに挨拶をしても、
なかなか声に出して応じてくれる人がいなくなった。
これは若い人に限ったことではなく、年寄りも同じ。
まるで言葉を発することさえ惜しむかのようだ。
(ひょっとしたら私、嫌われているの?)と勘違いしてしまいそうだ。
職場でも、肝心な報告や連絡・相談を言葉にして伝えない状況が蔓延している。
伝えていないのに、事がうまく運ばないと他人のせいにして不満の陰口を言う。
一言伝えてくれれば滞りなく協働できるのに・・・と思う。
いったいいつからこんなことになったのだろう、と考えてみる。
リアルな人間に、声を出して話しかけない(お願いしない)のに、
自分の思うようになると思ったら大間違いだ。
会話の多くを、声を必要としないツイッターやSNSのやり取りで済ませる。
それで自分は主張している気になっている。
でも、そんなやり取りはネットで繋がれた仲間内だけの話。
そんな無言の指先だけのやり取りに終始する対話ばかりしていては、
社会の中で、たまたますれ違う人々とのリアルな接し方など身に付く筈がない。
誰かが教えなかったんだろうなあ・・・と思う。
その「誰か」は、バブル時代に現役で働き、家庭を持ち、子育てした世代のような気がする。
彼らは今や高齢世代になっているが、昔ながらの日本の老人とは違う様相を見せている。
けっこう自分勝手で失礼な振る舞いの高齢者が多い。
そして、昨今巷でマタニティーマークをつけている女性たちは、彼らの娘であり孫である。
因果は歴然だろう。
若い人たちを応援したい、力になりたいと思っているのに、
一部のこうした傲慢不遜な振る舞いが気持ちを退かせてしまう。
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