図書館で、興味を惹かれたタイトルの本を借りてきて読んでいる。
いま読んでいるのは、
← これ、「あれも嫌い これも好き」 佐野洋子:著 朝日新聞社:発行
このエッセイ集 P.149-P.154 「女の老人とおばあさん」という一文に強い共感を覚えた。
著者は、若い頃(1960年代頃か?)にアメリカやヨーロッパの海岸で目にした、
砂浜に寝そべって日光浴をする(鯨の様なトドの様な)あちらの老人を描写する。
彼女らは、一様に派手な(明るいと言おうか)水着を身に付け、
金やプラスチックのアクセサリーをチャラチャラと素肌に飾って堂々と寝そべっていた。
その当時すでに、西洋の「おじいさん、おばあさん」は物語の中の存在であり、
目の前にいるのは「男の老人、女の老人」でしかない、と著者は感じた。
そして、当時の日本の老人のことを、
「日本のばあさんの様に目立たぬ様、出しゃばらぬ様、地味に装うということは時代遅れなのだ・・・」
と思い、いずれはこのアメリカの女の老人のように装うようになれば良いと考えた。
実は、その時既に、心の奥底では「趣味悪い、気味悪い」と思いつつも、
それがあたかも進んだ文化で、日本も行く行くは追いつくべき姿かも、と思ったようだ。
そして、この本が刊行された2000年当時の日本の老人に関して著者の筆が及ぶ。
ここより引用**********************************
そしてあっという間に、日本のばあさんは、しっかりアイシャドーをしわの間に埋め込み、口紅を唇の面積より一ミリ
位はみ出させ、さわればバラバラと粉が落ちそうな厚化粧となり、首にも腕にも金(ひか)り物をじゃらつかせ、堂々
と立派な日本の女の老人となって、私などの中婆から見ても十歳や二十歳いや三十歳位若く見える女達が出現し
たのは目出たいと云わねばならぬ。そして気が付いたら日本中「分相応」「わきまえ」などという垣根は全部とっ
ぱらわれていたのである。
本当に目出たいことである。おばあさんでない日本の女老人達は、肉体を装う革命をなしとげたばかりでなく、服
装、化粧など表面的なものばかりではなく、中味、つまり精神に於いても、「分相応」「わきまえ」などというものも外
見とおなじになったのである。
つまり老いは悪である、生命は戦いとるという積極性、死は忌み嫌うものである、たとえ死病に見舞われても勇気
をもって価値ある時を生きねばならぬ、命は地球より重いと合唱するのである。私は偉いと感心するし、ハッハーと
頭が下がる。頭が下がりながら、引き裂かれる。
もっと自然の摂理に人は従うべきではないか、ババくさくなるというのは人間、又自然の創造物である限り、木
が枯れてコブだらけになって倒れる様にあの世に行ってもよいのではないか。
**********************************引用終わり
(太字表記は、本ブログ著者:露草による)
この内容に共感したということは、
私も、周囲の現代老人たちに対して、佐野洋子さんと同じようなことを感じているということに他ならない。
年寄りが年寄りであることを引き受けず、いつまでも若さを追い求めてどうする?
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