めざましい知的発展に引き続き、主人公:咲人に人間らしい情意が発達してきた。
人間としての感情の豊かさは、知的能力の高低に比例するものではないということの示唆。
それにしても、なぜ今「アルジャーノンに花束を」なのか?
唐突にも思えたこの原作のドラマ化に、今日、ふとある意図を想像してみた。
私は、もう20年近く前にこの本を読んで結末を知っている。
第7話の今日は、その結末を予測させるようなエピソードが最後に示されていた。
人間の寿命が格段に延びた現代において、人々の不安の種となっているのが認知症。
「自分が自分で無くなり」「近しい人が全く反応の違う人間になる」日が、
やがて、多くの人に訪れるという人類史上初めての現象が待ち受けているという現代。
こうして「アルジャーノンに花束を」を毎回視聴するにつれて、
私の脳裏に浮かんできたのが、この現代人にとって最大の不安の種になりそうな病のこと。
言ってみれば、
主人公:咲人の状況は、現代人の一生をギュッと短縮したようなものではなかろうか。
そして、第7話で出てきた、人としての【情愛】に焦点をあてたエピソード。
「誰かが優しく傍にいて教えなければ、愛情は育たない」といった内容のセリフも挟まれていた。
感情が欠落しているかのような子どもの増加や、
我が子に注ぐ愛情に条件が付いているかに見える親の存在など、
このセリフは、現代の人間の成長模様にひとつの暗示を与えているとも受け取ることができる。
やがて訪れるかも知れない
「自分が自分でなくなる日」「近しい人が全く違う人になってしまう日」への心の準備は、
私たちにできているだろうか?
そして、
その日が避けられないのであるなら、
それこそ全力で「愛」のある今を生きなければならない、
身近な人々と、繊細で豊かな情意溢れる今を共有しながら、一心不乱に生きなければならないと、
あえて今「アルジャーノンに花束を」がドラマ化された意図を、私はそう汲み取ってみた。
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