引き続き、民俗学者:宮本常一を追いかけている。
今、読んでいる本は「宮本常一・・・逸脱の民俗学者」 岩田重則:著 河出書房新社:発行。
まだ読み始めたばかりなのだが、いきなり、心に響く記述に出会った。
少し長くなるのだが、忘れないように引用しておこうと思う。
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このクロポトキンの受容を語った自伝『民俗学の旅』は、よく知られたしめくくりの文章で終わる。
進歩と退歩の意味について語った一節である。
「私は長い間歩きつづけて来た。そして多くの人にあい、多くのものを見て来た。
それがまだ続いているのであるが、その長い道程の中で考え続けた一つは、
いったい進歩というのは何であろうか。発展というのは何であろうかということであった。
すべてが進歩しているのであろうか。
停滞し、退歩し、同時に失われてゆきつつあるものも多いのではないかと思う。
失われるものがすべて不要であり、時代おくれのものであったのだろうか。
進歩に対する迷信が退歩しつつあるものをも進歩と誤解し、
時にはそれが人間だけでなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつつあるのではないかと
思うことがある」
「進歩のかげに退歩しつつあるものをも見定めてゆくことこそ、
今われわれに課せられているもっとも重要な課題ではないかと思う。
少なくも人間一人一人の身のまわりのことについての処理の能力は
過去にくらべて著しく劣っているように思う。
物を見る眼すらがにぶっているように思うことが多い」
【宮本 一九七八a:二三五 から 二三六頁】。
この部分は、岩波文庫版『忘れられた日本人』の網野善彦の「解説」の結論でもあり、
網野に「これはまさしくわれわれ、現代の人間につきつけられた課題そのものといってよい」
【網野 一九八四:三三四頁】
とさえいわしめている。
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(アンダーラインは、ブログ作者:露草が引く)
宮本常一は、引用されたこの自伝を71歳の時に書いている。
そして、彼は1981年に死去した。昭和56年のことである。
明治の末に生まれ、大正・昭和と生きぬき、
日本各地の(ごく普通に生きる庶民)の声を聞き歩いた人であった。
その宮本が、高度経済成長の日本が失いつつあるものを肌身で感じとって書いた一冊、
それが、自伝『民俗学の旅』となったのだろう。
学者の学者による学者の為の民俗学とは違う視点が感じられる。
地方再生、地方創世と、政府は旗振りしているようだけれど、
そんな今だからこそ、宮本常一の著書から学べることがありそうな気がしている。
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