今朝のニュース・バラエティ番組で、あの林修先生が先日行われたセンター試験を解説していた。その話の中で印象に残ったことを、記憶が新しいうちに書き留めておきたい。
200点満点の国語科目において全体平均点が97点余だったそうだ。
その点数に驚きながら、林先生なりの解説を短時間でまとめ解説されたもの。その中で、最後に語られた内容が印象に残った。
近年および今回のセンター試験などから感じることは、書かれた内容の物語を理解する能力が低下していることだそうだ。人の書いた物語を理解できなければ自分で物語を紡ぐこともできないという結果になると。
その懸念を説明するために引用された本に「言葉は人であり人は言葉である。この言葉の力が衰えていくことは、すなわちその言葉でつながれた世界も衰えていくということ」といった内容に、私は衝撃を受けたし賛同をおぼえもした。
私の狭い社会行動の経験においても、近頃は簡単な会話も成立しなくなっていることを痛感している。ちょっと前までは(まだ私にその元気があったから)、相手にこちらの話が伝わっていないことを察した場合、理解されたと感じるまで言葉を替えて説明をしてきた。それが年々、言葉を尽くしても、易しく言い換えても、伝わらないことが多くなった。その上、困ったことには、相手に(理解したい・知りたい)という意欲が乏しいとしか思えないことだ。
言葉で考えなければ、言葉で伝えなければ、他にどんな手段で自分を形成し他者の理解を得るのか?
それとも、他人がどう思おうと自分が一番だし、黙っていても誰かが片付けてくれるんだから良いじゃないということなのか?
やはり、我がことを物語り、相手の物語りに耳を傾け、多くのフィクションやノンフィクションに接しながら「物語ることのできる自分の世界や人生」を築ける個人が集まってこそ厚みのある社会が構成されていくと言える。だから、言葉が亡びることは国が亡びることになりかねない。
私はかねてから英語の早期教育に熱をあげることには反対している。また、猫も杓子も英語英語と優越感や劣等感に振り回されることもおかしな話だと思っている。
まず、自国の言葉を正しく使えることが人格形成の基礎だと痛感している。
世界と渡り合う力として、まず《言語スキル》が取り上げられる風潮を苦々しく思っている。
まずは、《表現できる(すべき)内容を持った内面の充実》からでしょう。
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