あのことも、このことも、所詮は不完全な人間の為すこと、誤解曲解の繰り返し。
それは、個人レベルに於いても世界レベルの出来事に於いても同じだと、私は思う。
個体を分かてば、親子であろうと兄弟姉妹であろうと、まったく同一の理解のある筈がない。
もし何事かに共感がある(または無い)とすれば、
それは、発生した経験知見がそれぞれの個体内部に惹き起こす単純感情が近いか遠いかの差でしかない。
応援するスポーツチームが勝利したことを喜ぶファンが共有しているのは「嬉しい」という単純感情。
愛する肉親を喪ったことに喪失感を感じてシンミリするのは「哀しい」という単純感情。
しかし、それらの単純感情を共有できるのは、事実発生直後に限られる。
なぜなら、その単純感情は前後に個別の複雑感情があっての発現であるから、
時が経つにつれて個体間の感情のずれが開いて行くのは避けられない。
だから、私はどうすればいいのかと考えてみると「己の心念に沿って生きる」ことを貫くしかないのだと思う。
それぞれにそれぞれの「心念」があるわけだから個体間の誤解曲解は避けられない。
そうした誤解曲解を耐え抜いて時が経てば、いつか事の真相が分かる日が来るような気がする。
しかしそれも、(理解したい)(分かりたい)と思い続ける人には訪れる可能性があるということであり、
最初から自分の行為の反芻をしない人には関係のないことかもしれない。
それにしても、たとえ私が「ああ、あのことの結果がああなったのはこうだったのか」と分かったとしても、
哀しいかなそれを生かしてその後をうまく立ち回ることなどできないしなあ・・・
つくづく人間って、感情を持っていて厄介だなあと思う。
ところが、では人間ではない生き物に感情は無いのかというと、どうもそうではないらしいようなのだ。
犬や猫など人間に近いペットの話はたまに聞くことがあるし・・・
ま、みんなそうやって揺れ動きながら有機体を維持し、やがて無機質の土に還っていくのでしょう。
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