昨日の日曜日、ほんとうに久しぶりに、観劇のために東京へ出かけました。演目はサミュエル・ベケット作「ゴドーを待ちながら」。
このお芝居に関しては、1994年に上演された 蜷川幸雄:演出 市原悦子:主演 で観たことがあります。不条理をテーマのこのお芝居は、演出や俳優を変えて何度も上演されてきているそうです。今回は、森新太郎:演出 橋爪功:主演 ということで。前回との解釈や演出の違いにも関心がありました。
チケット予約したのは、この度の大震災発生の一週間前でした。どうした偶然でしょうか、しばらくは観劇もコンサートにも興味を失っていた私が選んだのは、人が生きるうえでの不条理を扱った「ゴドーを待ちながら」だったとは。
ヴラジミール(橋爪功)は一本の木の下で、来るか来ないかわからないゴドーを待っている。今の自分の救われない状態は、ゴドーに会えれば変わるという一縷の希望をもって。それにひきかえ、腐れ縁のエストラゴン(石倉三郎)はゴドーなんて関係ない。とは言いながら、エストラゴンはヴラジミールをそこに残して一人その場を立ち去ることはしない。ああだこうだと時間をつぶしながらその場所に "居る"。そう、ただそこに"居る"。
人が生きるということには、何らかの目標や功績が必須なのであろうか? 社会的に他から羨まれるような状況が、必ず人に生きている充実感をもたらすであろうか?
機会さえ与えられれば、私は何度でもこのお芝居を観たい。何度観ても解は得られないでしょうが、演出や演者を変えながら上演が繰り返される限り、またいつか観に行きたいと思う作品です。
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