今回の参院選挙で、ますます混迷の度合いを深めてしまった日本。政治が前に進まないということは、即、私たち国民の暮らしも停滞することを意味する。
人が形成する社会集団を学者が名づけた言葉に「群衆」「公衆」「大衆」の三種類がある。「群衆」は、大勢の人々が群れ集まっているだけの集団。「公衆」は、何らかの形や行動に社会的な意思を持とうとする人々。「大衆」は、社会に対する責任や義務とは無縁に無関心でいようとする集まり。さて、現在の私たちには、どの呼び方がふさわしいのか?
政治の話を持ち出せば、「そんな難しいこと、私には関係ないから」と拒絶しても何とか社会が動いていたのは、それなりに政治を引き受ける人物のいた時代のこと。いまや、そんなことを言ってはいられない時代になったのだと言わざるを得ない。
ところが現実はどうだろう。
「政治の話なんて嫌い」と避けてきた挙句は、自分たちの属する集団の目指すべき方向さえ定かに論じることのできない「大衆」ばかりの国になってしまってはいないだろうか?
ある企業が社内公用語を英語にした。日本各地の不動産が隣国に買いあさられても誰も問題視しない。国内の製造業や頭脳はどんどん海外に流出。空洞化するこの国。戦争によらなくても領土が侵略されているこの国。
言葉が滅びれば文化は消える。人材がいなければ発展はない。「私たちの国」といえる土地が無ければ、よって立つ足元を失い、その民族は流浪の民になるしかない。
これでいいのだろうか?私たちの日本は。
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