隣の芝生

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 人が持っているものを羨むことを「隣の芝生は青く見える」とか「隣の花は赤い」とか表現しますが、本当に隣の芝生や花のほうが輝いているのでしょうか?

 

 まこの国は格差社会だと言われ、持てる者と持たざる者との差が大きく開いています。今朝もテレビで芦屋の豪邸区画を紹介していました。やれセレブ(この表現には嫌悪感を感じます)だ、やれ豪邸だとテレビや雑誌はやたら色鮮やかに紹介するのですが、その発想の根底には「物欲」「金銭欲」が透けて見え、下品この方なく思えて仕方がありません。

 

 こに住まう人が得意げな笑顔で登場したりするのですが、私にはどう見ても同じ人間としか映りません。要するに、命を保つために食べて寝て排泄する生き物の一個体としか思えないのです。

 

 ルーザーを持つことやフェラーリを乗り回すことやイタリアの本物大理石で家の床を埋め尽くすことは幸せの条件ですか?それは万人共通の普遍的な要件ですか?いずれも人間が使う道具の一つに過ぎないのではありませんか?違うのは支払う金の多寡でしょう。

 

 望は膨らませれば際限なく膨らみやすい性質がありそうです。そして、欲望の大きさと幸福の実感の真実とは釣り合わないように思います。

 

 始の人間は裸の暮らしから出発し、身を包むことを覚え、道具を操り始めて今日に至っています。その変化発達の歴史を追って考え、使用目的の同じ道具になぜ価値の差ができたのかを冷静に判断するならば、盲目的に他人の持てる財を羨まなくても良いことに気がつきます。

 

 てる人は持っていい。その一方で、持たざる選択もあるという矜持を持ちたいものです。持てないと考えるから不満に感じたり情けなくなったりするのであって、持たない気楽さを良しとする考え方もあって良いのではないでしょうか?

 

 く見える隣の芝生も赤く見える隣の花も永遠のものではないのですから、そんなに羨望の眼差しでじっと見つめなくても良いじゃあ?りませんか?

 

 者の開き直りと言われるかも知れませんが、私は、こういう開き直りを自分の生きる哲学にできるまで虚心に思考して行きたいと思います。

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いいなぁ?、この感覚、この感性。

トルストイの短篇『人間にはどれだけの土地が必要か』と『起きて半畳、寝て一畳、天下取っても(たらふく食べても)二合半』ということばを思い出しました。

小泉首相時代に改悪された労働者派遣法。
登録型の派遣が行なわれるようになり、労働環境は悪化の一途を辿っているようです。豪邸に暮らす人がいる一方で年収200万円以下の労働者が1000万人を超えているというのは、やはり異常としかいえません。
勿論、<格差>を否定するものではありません。
<格差>があるのは当然であり、ある意味で必然でもあります。
しかし、いびつな<格差社会>が政治によって作られたことには、はっきりとNOと言うべきだろうと思います。

金銭や物の多寡にかかわらず、下品で卑しい人間にだけはなりたくないものです。

JO談さん、コメント頂き、有難き幸せにて(笑)

>政治によって作られたことには、はっきりとNOと言うべきだろうと思います。

その通り!! 思うに、この国の人々は何故(なにゆえ)このように物言わぬことを美徳と
するかのようにダンマリを決め込むのであろうかと、オババは常日頃より
歯がゆく思っておりまする(文句がある時にはついついお局言葉が一番私の気持ちに
そぐいます。篤姫の影響です。影響されやすい私:笑)。

今、宮尾登美子の「篤姫」を読んでいます。NHKドラマとは細部が違う内容ですが、原作本の篤姫の生き方やものの考え方に共感を覚えます。子供の頃から「男子に生まれれば良かったものを」と言われたり、固い内容の書物を好むような志向であったり、物や人に恵まれている時はそのように、またそれらを失えばそのように生きていく逞しさは、立場に雲泥の差がありながらも似たような心持を感じています。

精神だけは貧しく下品になりたくないものだと、固く自分に言い聞かせております。

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このページは、tsuyuが2008年6月14日 08:18に書いたブログ記事です。

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