ありもしないことを勝手に想像することを「妄想(もうそう)」と言います。仏教語としては「妄想(もうぞう)」と読むようです。インターネットの交流サイトにはこの「妄想」がはびこっているようです。
昨日、私がよく知っている場所で傷害事件が発生しました。いわゆるプロフというインターネット上の出会いサイトでのやり取りが高じてのことだと報じられています。中学生と未成年の無職少年との間に起きた現実を伴わない誤解から発展した現実の傷害沙汰によって中学生は意識不明の重体となっています。プロフの中でどのようなやり取りが為されたのかつぶさに知ることはできませんが、最終的には「半殺しにしてやる」という被害中学生の書き込みが引き金になったようです。
インターネットは匿名の世界と言われますが、今回の事件では加害者の少年が知人の情報から相手中学生を特定して呼び出していることからもわかるように、必ずしも完全な透明人間のごとくになれるわけではないのです。
どうせ匿名だからと高を括ってインターネット上で不道徳な振る舞いをすれば、いずれはわが身にその災難は降りかかってくるものと心得なければならないでしょう。匿名であろうが実名であろうが、行動する実体はどちらも「私」という一個体なのですから。私に人格と生活があるようにネット交流の相手にも人格と生活があります。お互いを尊重するなら、ネット上で踏み込める範囲は限られてくるはずです。
昔盛んだった、相手の手元にあった物がこちらの手に届けられるという文通とは、同じように見知らぬ同士の交流であっても似て非なるものです。文通は封筒や便せんの好みや筆跡からある程度相手の人柄や温もりが感じられました。そうであっても、見知らぬ人という不安は厳として存在していました。
「努々(ゆめゆめ)、インターネット世界で妄想をするなかれ」なのです。そこは決して現実と隔絶された世界ではなく、その世界を利用している我々は紛れもなく傷つきやすい実体だということを相互に忘れないようにすることが肝心だと思うのです。
もし、現実逃避として匿名性を楽しむのなら徹底的な自己管理のもとに発言するようにしたいものです。そうすることにより現実世界の自分が慰められ高められて行くのなら、せっかく人類が新しく手に入れたインターネットという手段は役に立つ道具と言えるでしょうに。
こんなに便利で有用な仕組みなのに、次々に起きる故無き犯罪のきっかけとなって批難を浴びているインターネットが気の毒になります。責めるべきは他にあると思うのですが。
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