日本海のイカ漁が一ヶ月早めに終業するというニュースが報じられている。

かの国の違法操業の影響が大きいとか。


そもそも、国際的な問題から個人的な問題まで、

ひとのものを横取りする(盗む)行為は許されることではない。

が、それを平気でやってしまう人間がいることも確かなことだ。


ルールとして文書化された事柄だけでなく、

人として「やってはいけない」事柄などを平然とやってしまう者がいる。

そうした、公徳心より欲望を優先させる人には「要領がいい」とか「チャッカリ」という言葉を連想する。

「自尊心」とか「矜持」「清廉」という言葉からはほど遠い行為に唖然とする。



「盗人ますます猛々しく」はびこり広がり、世の中はどんどん劣化・低劣していきそうな予感が拭いきれないこのごろ。



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今年の5月から、約40年ぶりの電車通勤が始まった。
電車通勤する人の多くは、乗り込む車両が決まってくるし、それに伴いホームでの待ち位置も決まってくる。

ということは、毎朝同じような顔ぶれに出会うわけである。


今年の秋過ぎ頃から、私が定位置にしているホームの電車待ちの列の2つ右隣に、私と同年齢前後と思われる女性が立つようになった。
最初見かけた時から、少々の異様さを感じた。


息子の使っていた物かと思われるようなジャージのズボンやウィンドブレーカーなど、無頓着な服装。

超のうえに超がつくような短髪に化粧っ気のない顔の眉は無いも同然。

そろそろ気温も下がってきて、むしろ寒いくらいなのに足元はサンダル。


身なりは個人の自由なので、それは構わないのだが、ひとつだけ傍迷惑な彼女の行動がある。

それは、彼女の呟くような声である。


手元に和書のような本を持って体を揺すりながら小声で謡うように読んでいる。

最初は詩吟をうなっているのかと思ったが、どうも詩吟ではないようだ。


彼女は耳当てをしているので自覚はないのかもしれないが、唸るような小声は周囲に蚊の羽音のように届いてくる。

これが案外耳障りなのだ。


彼女が早朝の出勤時に姿を現すようになって2ヶ月、最近は彼女の後ろに並ぶ人がいなくなっている。

みんなあの低い呟きの声が気になっていたんだ。



他人に危害を加えるような行動ではないので、何とも言いようがないが、

「他人のふり見て・・・なんとやら」、大勢の人なかに出かけるようになった私も、

無自覚のうちに他人に嫌われる行為をしていないかを常に意識しなくてはと思う。

最近独り言が増えてきたことだし・・・



とかく年取ると鈍感になって来がちなので、そこは常日頃からの心がけが大事なのだろう。


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人生は意外な展開の連続だが

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とにかく時間に追われる日々。それが今年の5月から始まった私の毎日。


こんな年齢になっても働く場所があったことを幸せに思っている。


「こうすればこうなる」という確約は無いのが人生。

「こうしたのにこうなった」「なんでこうなるの」というのが人生。

だからと言って投げ出せないのも人生。


意外な展開の連続で人生は紡がれていく。


どのような状況が訪れようと、そこでアタフタと対応しながら暮らして行けば何かが見えてくる。


過去に経験した理不尽な経験の数々を忘れ去ることはできないが、

それにこだわっていられないほど忙しく今を生きなければならない貧乏暮しも、また良しとしよう。


とにかく、今、わたしが確かに言えることは「私は決して不幸せではない」ということだ。




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カラーコンタクトへの違和感

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以前、あるテレビの番組で女性アナウンサーが、カラーコンタクト無しでは番組に出られないと話していた。

その時は「へぇ、カラーコンタクトって、もうそんなに定着したのか・・・」くらいの関心の薄さだった。

まあ、メイクの一種でしょうねと思っている。


先日、30代くらいの女性と会話した時(あまり好ましい状況ではなかった)、

彼女の目を見ながら気持ちを込めて話をしたのだが、ふっと彼女の表情に違和感を覚えた。

「ん、ひょっとしてこの人カラーコンタクトしてる?」

その目は、まるでビスクドールの目のようなのだ。

つまり人形にはめ込まれたガラスの目。

冷淡で非常識な言葉を発する彼女の態度も影響しているとは思うが、

その目の輝きの無さや温もりの欠如が気になって仕方なかった。


パッチリした目に大きい黒目が自分の顔のチャームポイントになると思ってのカラコンなのか。


今年、秘書に罵詈雑言と暴力をふるったことで国会議員の席を失った豊田○○女史ではないけれど、

「ち・が・う・だ・ろー!!」と言いたくなる。


目の魅力は黒目の大小や一重まぶたか二重まぶたかだけではなく、目の周囲の筋肉の動かし方で表情が出てくるもののような気がする。

黒目が小さくても、細い目でも、そこに人柄がにじみ出れば好ましい印象を受ける。

人形の目では感情は伝わらない。

最近になってカラーコンタクトレンズを使うことの眼への悪影響も言われているようだし、

愛用女性たちはいつまでカラコンを使うのだろうと、余計なお世話なことを思ってしまう。


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世は挙げて個人情報保護時代。

「知られたくない」が保護される。

なのに、一方では「知られたい」という願望を抱く人も多い。

矛盾しているのではないかと感じることが多い。



マンション管理員として働く私も個人情報の取り扱いに関する指示が常に通達される。

これから長期にわたって勤められる立場ではないし興味も無いから、

私は居住者に関しての個人的な情報は覚えないようにしている。


人にかかわる仕事をする者にとっては難しい時代だと思う。



ただ、世間を賑わす話題に触れていると、

「私の事を知らせたい、知ってほしい。有名になりたい。」という行動が多く見られる。


インターネットに自分の情報を投稿して話題を集めたい。

個人のアート作品や文芸作品で一儲けしたい。

テレビや劇場などでパフォーマンスを披露して人気者になりたい。



世に名を馳せるようになれば私生活が暴露されるのは昔も今も変わらない。

人に名や顔を覚えてもらおうと志せば、それはある程度覚悟しなければならない。



多くの人々に「知られたい」のか「知られたくない」のか、どっちなんだよ!

名前も住所も出身地も趣味も思考傾向もその他もろもろ多くの個人情報を知らないで、

目の前に相対する人とどうやって良好な人間関係を築けと言うの?

視覚情報だけで相手を推し量って付き合えってか?



むーっ、もう何が何だかわけがわからない時代。


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政治に関しての発言は極力控えたいと思ってきた。

しかし、この度の衆議院選挙に関する動向を見ていて不気味な不快感を拭えないでいる。



インターネット上でこんな動画が紹介されていることを知った。

金子修介の雑記 "Essay"」 

総務省と明るい選挙推進協会が選挙啓発のために2005年に制作した動画である。

その中に出てくる政党の名前が "希望の党☆"。

すでにネットでは話題になっているらしい。



一般社会集団においても、ある人物をやり玉に挙げて攻撃することで自らが主導権を奪取しようという人間がいる。

また、そうした人物に風が吹くと、自分もその風に乗りたいと吹き寄せられる人間は多い。

「そうだ、そうだ」「そうよ、そうよ」と、いつの間にか微風から竜巻になった勢いに巻き込まれた結果、

実は、やり玉に挙げられて追い落とされた人間の方がマシだったのではないか・・・

と、後悔するという事例は多々ある。


自ら神輿のてっぺんに乗ることに名乗りを上げる人間は、往々にして、乗ってしまえば満願成就。

つまり、一度は神輿のてっぺんで「してやったり」の快感を得ることだけが目的だったりする。



選挙がある度に思うことだけれど、

「この人たちの中から選んでください」と提示されるだけで選ぶ虚しさ。



よほど心して選ばないと、本当にこの国は危ういことになるような気がしてならない。



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駅の構内で呼び止められた。

20年近く前に同じ職場で働いていた知人女性。

その第一声が「ねぇねぇ、露草さん太った?」。



親譲りの太りやすい体質なので、小太り人生は覚悟している。

それに、高齢になって代謝が悪くなっているのか、動けども動けども痩せない。



近くには住んでいるが、ここ十数年は会うこともなく過ぎてきた知人女性のこの言葉、

彼女の記憶にある私はどれほど引き締まった体だったのだろう?

あの頃は頻繁に山登りをしていたしなぁ・・・



オシャレとも無縁な私だし、このまま小太り人生で終わりそうだな・・・


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昨日、昼時にファミリーレストランを利用した。

接客してくれた若い女性は細身で彫りの深いハッキリした顔立ち。

外国人(フィリピンか東南アジア系)かなと思ったけれど、

ハキハキと正確な日本語を喋り接遇態度も完璧。

最近は日本人でもメイク次第だし親が外国人でも日本育ちということもあるし・・・

名札を確認しようとしたが、よく見えなかった。



いつも些細なことにひっかかって確かめたくなる私の癖。



頼んだメニューには牡蠣の調理方法にフライとグラタンが選べるものが含まれていた。

昼食で揚げ物を食べると夕方あたりに胃がシクシクする私は「グラタンを」と頼んだ・・・と思う。


いざ料理が目の前に届くと、そこにはカキフライが。。。

「え、わたし、グラタン頼まなかった?」と言ったら、

そのウェイトレスさん、「いいえ、確かにフライとおっしゃいました。わたし覚えていますもの」と、即座に断定。

こちらとしては、オーダーの時に脳内にグラタンの画像を浮かべながら「グラタンでお願い」と言った記憶があるので???

・・・まあ、年のせいで頭の中と口から出す言葉が符合しないままに思い込んだかもしれないし・・・

ということで、「じゃあ、作り直しますか」と言う彼女を押しとどめて「どちらでも食べられるから大丈夫、大丈夫」と良い人ぶった私。

これって、典型的日本人だよなあ・・・と自身で苦笑い。


相手が誰であろうと(客であろうと)自分の正当性を即座にハッキリ言うその一言で、この女性は確かに外国人だと確信できた。


この場合、日本人ウェイトレスだったらどうだろう?

明らかに客の思い違いと思っても「申し訳ありません、ただ今お取替えいたします」といった対応をするのではないか?

自分自身ならと考えてみると、

「あなた間違えてるわよ」と言われたら、まずは自らの言動を振り返りモタモタしてしまうだろう。

そして、おそらくは、自分の言い分を引っ込めてしまいそうだ。

まして自分の記憶にすっかり自信を失っている今なら尚更のこと。



どちらが良いとか悪いとかいう問題ではなく、

ほんの小さな出来事から、民族文化の違いについて考えさせられた。


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僕は9歳のときから死と向きあってきた』  柳田邦男:著     新潮社:刊


死生観とは人がこの世にあるうちに完成することはないのだと思う。

何度も何度も繰り返し「生きるとは・・・」「死するとは・・・」と問いかけ続けることで紡がれていくもののような気がする。

人生の意味を問うことは、すなわち、死の意味を問うことだと確信するようになった。


この書の中で著者が「自分の死を創る」時代の提言をしている。



振り返れば自分も、この本の著者:柳田邦男さんと同じように、

小学校4-5年の頃から常に死というものに向き合って生きてきた。

世間的にみれば底辺を這いずり回るような人生かもしれないが、

常に死を意識し考え続けてきたことが折々の経験を意味あるものとして感じさせ、

現在の年齢まで歩みを止めずに来られた原動力だったような気がする。



人間というものは【物語】を語らなければ理解できない。

自分のためにも、他者との理解のためにも。

そして、【物語】のために有効な方法が【書く】ことだと柳田邦男さんもこの著の中で述べている。

他人に読ませるためではなく、

ただ自分の考えを整理し、生きる指標として脳内に根付かせるためにも【書く】という行為は有効である。


死を考えることは今を悔いなく生きることである。

改めて強くそう想う。



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忘れる人、忘れない人

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つい最近こんな言葉を目にした。

「恩を受けた人は忘れてはいけない。恩を与えた人は忘れた方が良い」

一字一句が同じではないが、大体そういう意味の言葉。



同じような言い方で、

「いじめた者は忘れているが、いじめられた者は忘れない」ということを言う人もいる。




できれば、

誰かが繰り返し思い出したくなる温もりの記憶の登場人物として人の心に残りたいものだ。



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