最近小学校低学年から英語を必修にしようという動きがあるようですが、私はとても賛成できません。


 言語は文化や社会活動の表現手段であり、表現する内容への自覚(アイデンティティー)も育っていない子ども達に一律に外国語を教えて実用に耐える会話ができるのであろうかという危惧を感じるからです。しかも、ネイティブの教師に「自分は日本人に英語を教えているのだ」という語学指導者としての自覚がどれほどあるかも疑わしいと思っています。


 また、英語授業を補助する小学校教師に、英語圏や外国への理解や知識がどれほどあるかも問われると思います。なぜなら、担任日本人教師はネイティブ講師と児童との間を取り持つ役割が求められるのは必至だからです。


 幼い頃から外国語を学ばせるのなら、その言語が使用される世界の国々の文化や思考と日本との違いも同時並行で教えながら、子供たちの(アイデンティティー)は日本という国にあることを自覚させながらの授業でなくてはならないのではないでしょうか。


 安易な外国人労働者の受け入れ拡大や英語授業の低年齢化等、中央政府はこの国をどうしようと考えているのかと首をかしげたくなるような施策が次々に打ち出されて不安が募ります。



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 会社からの指示で人間ドックを受診してきました。


 67歳になって、今更人間ドックなんてと思う気持ちはありますが、これもお給料のうちだと思い、足取りは重く向かった次第です。


 何が面倒って、検体の採取に始まって予約日時に指定の場所に出向く労力を考えると、結構手間暇かかることなのです。若い正社員と同じ福利厚生にしていただくのは有難いことではありますが、もうどうでもいいや・・・という感覚でもあります。


 指定の健診クリニックが、ちょっと住まいから離れた場所にあるので、今回は胃部のバリウム健診をキャンセルしてもらいました。下剤を服用しての帰路1時間半はキツイものがありそうでしたので。


 もう過去に何度も健診を受けていますが、このごろ思うのは、育児と一緒で、人間は機嫌よく動いていられれば大丈夫なんではないかなということです。どこかに不調があれば、きっと不快感を自覚するわけで、そうなってから医者を受診すれば良いわけで・・・なんて言うと、反論の嵐は轟々なんでしょうね。長生きが必ずしも幸せではないことに気づいているのは、長生きしている高齢者本人でしょうね。

 人間ドックの義務化には、国民の「健康で幸せな生活」を純粋に祈る配慮だけではなさそうな思惑も見え隠れすると「放っておいてくれ」とも言いたくなる私です。


 こんな悪態がつけるのも、私が現時点で大きな病気を抱えていないからなのでしょうが。




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「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」   新井紀子:著    東洋経済新報社:発行


 非常に興味深く、また、共感を覚える内容で一気に読み終えました。

 著者は数学者。文章は論理的でありながら平易で、専門知識の無い読者にも分かり易く書かれていると思います。最近、社会的に関心が高まっている「AI(人工知能)と人間の役割分担」に関して解説されています。


 近年、AI の開発と導入が進むと人間の仕事は奪われてしまうのではないかという話が、人々の不安をかき立てるように語られるようになりました。根拠の説明はできないのですが、私はそうした見方に疑問を感じていました。この本を読んで、私の疑問は半分外れ半分当たりだったと思っているところです。


 半分当たりというのは、やはり、AI には、複雑怪奇で予測のつかない人事の全てを独自に判断はできないということです。半分外れというのは、それでも、数学の言葉に置き換え得る(プログラミングできる)内容に関しては AI は人間に劣らぬ習熟を達成するということでした。

 では、プログラミングされた AI に仕事を奪われてしまう人間には何が欠けているのかというところで「教科書が読めない子どもたち」という観点につながっていきます。


 最近、現場の教師たちが子供たちの読解力低下に危機感を覚えることが増えているのだそうです。それはスマホに頼り過ぎだからとか読書をしないからという問題ではないと著者が指摘します。そして、この読解力を養うことこそ AI と人間を差別化し生き残りを可能にする能力なのだと訴えています。


 この本の書評を的確にまとめられるほどの力が私には無いので伝わりにくいかもしれませんが、とにかく、 AI と共存することは避けられない今後の社会で、自分が人間として人間らしく生きる為には何が大事なのかを示唆してくれていると思います。著者はそこまで言及はしていませんが、私は、ますますコミュニケーションが成立しづらくなっている現代社会の根本原因にも関連していることかもしれないと感じました。


 本が売れないと言われる今日において、2018年2月第1刷発行で5月には第9刷を発行しているという事実は、いかにこの本が読まれているかという証でしょう。¥1,500-です。このごろは本が高くて、なかなか自分では買わないのですが、著者の今後の活動にも寄与することがわかり、この本には対価を払う価値があったと思います。



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毎晩「ラジオ深夜便」をかけたまま寝ています。

最近、夜中、約1時間おきくらいに目覚めることが多く、

そんな時にラジオから昔懐かしいアナウンサーの落ち着いた声が聞こえると、安心して再び眠りにつけるからです。

担当のアナウンサーのお名前を聞くと、かつて夜7時台のニュースで聞いたお名前が多く、お顔も浮かんできます。



その「ラジオ深夜便」で、今朝、いま小児科学会会長をなさっている高橋先生がお話をされていました。

途中からだったのですが、母子家庭で育ったご自分がお母様から受けた教えのことや

ご自分自身の子育てのお話に触れておられる部分に聞き入ってしまいました。


一番共感を覚えて印象に残ったのは

「子どもが生まれることは『おめでたいこと』でなくてはならない」ということと、

「小児科の先生方は、患者である子どもたちやその母親に対してとても礼儀正しい」ということでした。



今、少子化ということで政府は女性に子供を産むことを"期待"しています。

女性たちは産むためには環境を整備し、子育てにかかる経済的な安定を保障せよと要求します。

そんな報道に触れながら、私は、何か違和感と不快感を感じていました。

そこには、子供の誕生を無条件に受け入れて喜ぶ【心】が欠けているように思うのです。

いま社会で「子ども」を話題にしている人たちは、

それぞれの子どもを一人の人間として尊重する視点に欠けていると思います。

それぞれの子供の幸せより、親である自分の幸せや国家の行く末への思惑が先行しているように感じてなりません。



そうした私の思いが、ラジオ深夜便で高橋先生が的確に言葉にされていて共感を覚えたのです。



私は夫を早くに亡くし、子育てに支援を頼めない環境で二人の男の子を独りで育てて三十数年になります。

振り返れば、我ながら背筋に冷や汗が流れるような危うい子育てだったと後悔ばかりです。


それでも、子供たちが中年に差し掛かった今になってやっと「子育ては楽しいこと」なのだと気づいたのです。

同じような話をされる高齢女性は、昔から数多く出会ってきました。

自分が子育て真っ最中だったころには実感できなかったその内容が、今なら解るということでしょう。



国の行く末が危ういから子供を増やせとか、自分の老後や財を託すために子供が必要だというのでは、

誕生の前から重責を担わされる子供が可哀そうです。

子どもは生まれてきただけで喜ばれ、生まれながらに備わった個性のままに受け入れられる存在だと思います。

これは、むかし子どもだった自分が「そうでありたかった」と思っていることです。


子どもがどう成長し、彼らの人生で何をしていくのかは、周囲があらかじめ決めるのではなく、

生まれた子どもの個性や意思を尊重しながら、その都度、柔軟に必要とされる支援をするのが

先に生まれた者たちが、後に生まれる人たちに対して向き合う時に求められる姿勢だと思います。


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最近は忙しくて、映画を観に行くこともなかったのですが、今日は「華氏119」を観に行きました。

娯楽というより、観なくてはいけないという気持ちが私を動かしたのです。


今日はアメリカの中間選挙の結果が出る日です。

この映画は、アメリカの中間選挙と深い関連性を含んだ内容です。


中間選挙の結果が出る前に映画を観たわけですが、

映画の中に何度も出てきた女性たちが下院に選出されています。



昼過ぎには中間選挙の結果が次々に報じられたのですが、

下院ではトランプ大統領の所属する共和党ではなく民主党が多数を得たことが判明しました。

この結果を導いたのはアメリカの若年層の行動だということですが。

「華氏119」を観た後で現実の選挙結果を知ると、よりハッキリとその経緯がわかります。

果たして今後、日本の若年層がこのような行動力で国に影響を及ぼすことができるでしょうか?



映画の中に何度も出てきた女性が下院に当選したようです。

下院の歴史で最年少の当選を果たした女性、イスラム教徒で当選した女性、

いずれも映画の中で取り上げられていました。



特に印象に残った「金が選挙の結果を決める」という言葉が一回だけ出てきました。

このところ私の身近なところで、能力はないのに選挙資金が用意できるというだけの理由で

選挙に当選して政治家になる事例を何件か見て苦々しく思っているのです。

世界中どこも同じなのだということですね。



「華氏119」の監督マイケル・ムーアは、トランプ大統領のやり方をナチスのヒトラーに重ねて表現していました。



日本も気を付けなくてはなりません。

私が若いころから見てきた経験では、

戦後日本はアメリカの数年数十年後に同じような社会現象を起こしているような気がするからです。

もう遅いかもしれない。

でも、本来はアメリカと異なる文化をもっていた日本を、今更だれが思い起こさせてくれるのでしょうか。



今日の映画の観客は、私と同年配の団塊前後世代だとお見受けしました。

皆さんどのように感じておられたでしょうね。



日本では報じられないアメリカの動きを知るために、ぜひ観るべき作品だと思いました。



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物に宿る思い出

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実家を離れてから今日に至るまで、いわゆる「楽しい帰省」ができたのは数回。

母が母らしいうちに実家に帰省できたのは2回くらいだろうか。




物に対する執着心の薄い私が実家から何かを欲しがることはなかったと思う。

それでも、「お母さん、あれちょうだい」と言ったものがある。

それは型押し寿司の木型。

子供のころ、祭りや正月に母が作ってくれるのが楽しみだった記憶がある。

私も我が子に食べさせようと思って母に頼んでみた。

本当は、長方形の真ん中に仕切りがあって正方形の押し寿司が二つできる型が欲しかったのだが、

母が小包に入れて送ってくれたのは松竹梅の型に押せる木型だった。

なぜ正方形の型でなかったのか、理由はもう覚えていない。

せっかく貰った木型も、その後、松竹梅の押し寿司型の出番は無いままに食器棚の奥に眠っている。

今だに、それを取り出して眺めながら思い出に浸る時間は持てないでいる。



一方で、母の葬儀で帰省した時に貰ってきた鉢は日常的に活用している。

直径25cm・深さ10cmくらいのクラシックな鉢には固定した食物の思い出がある。

それは「ナマコの酢の物」で、私は大っ嫌いだったけれど3歳上の姉には大好物だった総菜だ。

ヌルヌルとしてグレーっぽい色合いで酸っぱい(酢の物だから当たり前)ナマコの酢の物が、私は苦手だった。

ところが、姉はその鉢の全部を一人で平らげてしまうほど好んでいた。

その鉢には、母が酢の物を作って入れていた記憶が残っている。

「ナマコの酢の物」以外では「蓮の三杯酢」も入っていたっけなあ・・・



物に執着は強くないけれど、その食器を使いながら、当時の母の気持ちを考えてみたりすることもある。



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秋の雨は・・・

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秋の雨は、もの寂しくて、そこはかとなく感傷的になってしまう。

【青春】【朱夏】【白秋】【玄冬】、気が付けば「人生」に重ねている。

【白秋】なのか【玄冬】にさしかかっているのか、わからないが。

元気出さなくっちゃ・・・なんて、もう思わない。

まさに自然体。



それにしても、今年は曇天と雨天が続く。

自然現象も社会現象も、大荒れが続いている。

いったいどうなるんだろう。

どうなるかは予測つかないが、これだけは言える。

「なるようになる。なった結果に応じて我が身を処していくしかない」


落ち着いて、静かに暮らそうと努めている。


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風邪をひいてしまった

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日曜日から「アレッ?」という症状が始まり、月曜日には鼻水が止まらなくなった。

月曜日午後から微熱も感じるようになり、昨夜から今朝にかけて風邪症状だと自覚。



今日と明日、仕事はお休み。

相変わらず、休日に症状が出て、仕事する日には回復するというパターンの自分。

ありがたいことだと思わねば罰があたりそうだ。



おまけに、火曜日の午後である今日は症状が軽快してきて、明日一日ゆっくり過ごせば大丈夫そう。



高齢者の仲間入りしたこれからは、たとえ風邪であっても油断はできないのだろうなあ・・・

そんなことを感じた。



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他人の空似

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血のつながりはないけれど、偶然、風貌が似ている人がこの世に何人かは存在するらしいですね。

昨年、仕事先のマンション近くで見かけた人は、私の知人そっくりでした。

視線は合ったのに反応はなかったので、おそらく「他人の空似」です。

この人の場合は、後日、ご本人とすれ違った時に「空似」だったことがわかりました。

でも、ご兄弟かご親戚という可能性もありますが、わかりません。


そして今日、駅のホームで見かけたのは、私の長姉にソックリな人です。

ジーっと見つめそうになり、話しかけたい衝動にかられました。

今日のケースは確実に「他人の空似」です。

だって、姉はもうずいぶん昔に亡くなっていますから。



それにしても似ていました。


私に似ている人もいるようで、以前、知人からメールが入り

「あなた今、〇イヤル・ホストにいるでしょう」と聞かれました。

その時、私は自宅にいたので、そのように返信すると、

「向こうの席にソックリな人が座っているのよ、話しかけなくて良かったわ(笑)」

ということでした。



世の中には不思議なことがあるものです。




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通勤の途中で頻繁に出会う人たちのことが気になることを書いたけれど、

その他にも、日々の暮らしの中で見知らぬ人が気になるということもある。



もう数十年の間、出会ったことはないけれど、窓の明かりでその存在を確認している人がいる。

性別も年齢も知らないけれど、生活のリズムが同じらしいのだ。

朝が早く、夜が遅い。

我が家のベランダから見える近隣マンション最上階の住人。

ある時ふっと気が付いた。

私が朝起床して動き始めるのと相前後してその明かりが点り、

私が夜更かししている深夜も同様に明かりが点っている。

ああ、同じような生活リズムで動いているんだなあ・・・と、

勝手にその明かりに親しみを覚えてきた。



ところが、ここ2-3年、その明かりが私の行動時間とずれる日が増えた。

その人にも定年が訪れて、それまでの現役活動時間帯ではなくなったのだろうか。



(お互いに年を取ったようですね)と、心の中で語りかけている。


今後、私自身がどのように老いていくのか想像できないが、

私が「見知らぬ人」を気にするように、私も、どこかの誰かに気にしてもらっているのかもしれない。

そんなことを考えながらボチボチ生きている。



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