「常識」なんて、もはや死語だ

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このところ、佐藤愛子さんのエッセイを読んで、大いに溜飲を下げている私。

いま読んでいるのは「たしなみなし 不敵雑記」 (2001年11月30日発行 集英社)。


一章のボリュームが短くて、大変読みやすい。


いちいち共感・同感の繰り返しなのだが、その中で今読み終えた部分をここに転載して残しておこう。


・・・転載始め・・・



「前代未聞」



ー前文略ー



 つまりこれら前代未聞の現象は日本人が前代未聞の人間に変質して来たということであろう。考えることをやめた日本人、責任も恥もない日本人が「前代未聞」の事件を引き起こしている。そのうちこの機械文明の中では「前代未聞」がすべて「普通」のことになってしまい、責任や恥のために刻苦する人間は「前代未聞」の人といわれるようになるのかも。    (p.105)



・・・転載終わり・・・



佐藤先生、

この本の刊行から16年経て、いまや事態は先生のおっしゃる通りになっています。

(責任や恥のために刻苦する人間)なんて、誰も評価しません。

(何もしないことでうまく世渡りする人間)こそあらまほしき姿だという認識(すらしてないかも)の時代です。


先生や私が念頭に浮かべる "常識" とは、もはや現代の "常識" ではなくなっているようです。

というか・・・

そもそも今の時代に、「語らずとも誰もが理解している」という意味での "常識" なんてないのかもしれません。


私の頭にはしょっちゅう「混沌」という言葉が浮かんでくるこのごろです。

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このページは、tsuyuが2017年6月14日 09:01に書いたブログ記事です。

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