心の重石(おもし)は常にありながら

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昨日と今日、お休みです。

1日に職場に顔を出し、派遣代行の方からザッと様子を聞きました。

直後の休日なので、まだ多少の不安は継続中ですが・・・



☆☆☆



いろいろさまざま、生きていく上での心配事は絶えません。


(こんなに平和で幸せで良いのかしら)と自覚的に考えたのは過去1回だけです。

それは、夫が職場の勧めで病院を受診すると言って出かけた朝。

幼い子供二人が遊ぶのを横目にしながら部屋に掃除機をかけていた時のこと。

お天気は良いし、子供は健康で仲良く遊んでいるし、

幼いころから身内に(変人)だの(他人から嫌われる)だの言われた私が、

妻となり母となれていることを不思議に感じながら、

できればこの平穏が続いてほしい、いや、続くものだと思った瞬間でした。



人生とは、どこでどの瞬間に180度転換するかわかりません。


私が「幸せだ」と思った直後のことです。

電話の呼び出し音が鳴りました。

病院からでした。

「ご主人の病状について、ご本人には内密に奥様にお話があります」

このセリフは、テレビや映画で何度も耳にしていました。

その意味するところは・・・夫の病気が深刻なものだということです。



その前夜、夫本人は結果の深刻さを感じていたのか眠れないようでした。

ただ、家を出て行くまで「きっと大丈夫だよ。帰ってきたらあれをしてこれをして・・・」と、

まるで自分自身を安心させるかのように普段通りに振る舞っていたので、

私も悪い結果など予想だにしていませんでした。



病院に出かける夫は「検査だけだから、すぐに帰ってくる」と言い置いて出かけました。

玄関を出て、駅に向かう夫の背中が角に消えるまで見送りました。



夫を見送ってから、私は部屋の掃除にとりかかったのですが、

やはり、(何事もありませんように)という不安の裏返しでしょうか、

冒頭のような『幸福感』が鮮明に浮かんできたのです。

神様からの「失う前に記憶に焼き付けるように」とのメッセージだったのかもしれません。


あの一瞬の『幸福感』が記憶に鮮明であり、なぜ神様からのメッセージのように思うかと言うと、

『幸福』と感じた一瞬の記憶が、それからの人生で崩れ落ちそうな時の支えになったからです。



私だけでなく、心という存在を抱えながら生きる全ての人々は誰も、

大なり小なり常に何らかの「心の重石」を抱える宿命を負っているのでしょう。

その「重石」を支える力が出せるか否かは、

過去のある時点で、ささやかな幸せでも自覚できる一瞬があり、

そのことに感謝した記憶の有無に関係するような気がします。

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このページは、tsuyuが2017年5月 3日 06:48に書いたブログ記事です。

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