ラーメン貝殻事件


一生の間に、どれくらいの人が救急車のお世話になるという経験をするだろうか?
こればかりは、できれば経験したくはないが、いざとなった時にこれほど頼りに思うものはないでしょう。

私はこれまでの人生で二度、救急車に乗ったことがあるのです。一度は二男の交通事故、もう一度は自分自身の誤飲事故の時のことでした。

二男の事故の時には、初めて救急車の世話になるという事態でハッキリした記憶がありません。ただ夢中で子供の容態と事故処理のことが頭を駆け巡っていたように思います。その他のことは、事に慣れた救急隊員がどうにかしてくれるという、はなはだ頼り根性だったような気がするのです。幸いなことに大した怪我ではなくて事なきを得ました。

それからしばらくして、今度は自分が救急車のお世話になる羽目になりました。
それはあるラーメン屋でのできごとです。
そのラーメン屋は、ミニコミ詩に紹介されるほど評判の店で、人気メニューは店の名前を冠した、殻つきのアサリが入ったラーメンです。

正月が明けてまだ間もなく、年始休み中だった私は二人の子供と夕食をその店のラーメンで済ませようと買い物帰りに立ち寄りました。
席についてメニューを見ながら考えました。せっかくだから店の自慢の一品を頼んでみようか、と。子供たちはそれぞれ別の品を決めて注文したまでは良かったのです。
三人の丼が目の前に運ばれ、麺をひと箸はさみ上げ、すすった途端に喉にガチッと厭な感触。
「ん、虫歯に被せてあった金属がはずれたか?」
喉に異物感がある。呑み込もうにも呑み込めない。急いでトイレに駆け込み、吐き出そうにも吐き出せない。喉中央に硬い物が突き刺さっている感じがする。まさに、冷や汗タラリの状況でした。

小学校3年生と保育園年長児の子連れの母親としては、ここで慌てるわけには行かない。
休日の夜間、医者はどこも休診しているころです。まずは店主に救急車の手配を頼み、子供たちには食べ終わったら家に帰るように指示。
しかし、子供たちも母親の異変に食事どころではなくなったらしく「もう帰る」と言うのです。三人ともラーメンは殆んど手付かずのまま。
店に来る時には車で来たのですが、歩いて帰れない距離ではないので子どもたちはそのまま二人で歩いて家に向かいました。

しばらくすると、近くの消防署から救急車がピーポピーポと赤色灯を光らせながら到着。すると、ご近所の家からぞろぞろと人が出てきました。
そう、やじうまです。その顔ぶれの中には見知った人の姿も。こちらは意識がハッキリしているので、ジロジロ覗きこむのはやめて欲しいと思いつつも、喉の異変も気になってそれどころではありません。
早く出発しないかなと思うのに、なかなか発車しない。救急隊員は二人。運転手は運転席で待機中。もう一人の隊員が消防本部と連絡中。どうやら受け入れの病院を手配しているらしい。
救急車は、病人を乗せてから病院の手配をすることを、私は初めて知ったのです。
やっと行き先が決まり出発したころには、救急車到着からかれこれ20−30分も経っていたでしょうか。「やれやれ・・・」と安堵の胸をなでおろしました。

ところが、驚くことはまだあったのです。救急サイレンを鳴らしながら走る救急車の前を行く一般車両が除けないのです。隊員が「はい、救急車両が通ります。道を空けてください」と何度呼びかけようと、スピードを上げこそすれ脇に除けて止まろうとする車は少ない。
そんな車の間をすり抜けながら、何とか目的の病院に到着しました。
到着すると中から病院関係者が現れて、救急隊員と引渡しの会話を交わしている。それが終わると救急車は私を病院に残して走り去ったのです。

「えっ、え〜っ、か、帰りの足はどうなるの?」
その病院は、かなり不便な場所にあるのです。それに深夜のことで公共の交通機関も当てになりません。まあ、これが日中であっても路線バスしか通っていない場所なのです。
ここでも新しい事実を知って驚く私。そうなのです、救急車は帰りの面倒までは見てくれないのです。考えてみれば当たり前のことでした。今回は食事に出かけた場所での出来事で、お金を所持していたのでセーフでしたが、これがもし大慌てで出かけてきたのなら・・・、財布も家の鍵も忘れていたら・・・、帰りはどうやって帰ろうかと迷ってしまうところでした。
一人で病院に取り残されて心細いことこの上ない私でした。

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「さあ、この喉につっかえた厄介な代物を始末してもらえるぞ」と大いに期待して診察台に腰掛けて待っていると、中年の男性医師が気乗りのしない様子で診察室に入ってきました。
「どうしましたか」とお定まりの質問から始まります。
「いや、実はこれこれこうで、歯の被せ物が引っかかっているのではないか、と」
「はあ、ちょっと口をあけて見て」
「う〜ん、被せ物が外れた様子はありませんがねぇ」
「じゃあ、レントゲンを撮ってみましょう」

ということで写した一枚のレントゲン写真から、喉につっかえた物は歯の被せ物ではなくて、アサリの貝殻の破片だということがわかりました。
「貝殻つきのアサリ」が入っていること、それがあのラーメン屋の名物ラーメンの特徴、です。そういえば、麺をすくい上げた時にチラッと目に付いた一部分欠けた貝殻。その破片はどこに行ったのかなと、思わないでもなかったのです。でも、まさかその一片がラーメンの麺の中に埋もれていようとは、想像の外でした。まして、最初のひとすすりで喉に飛び込みしかも食道の壁に突き刺さるなんて、誰に予想できるでしょうか。
さて、実態は貝殻とわかりました。刺さっている位置もだいたい見当がつきました。さあ、医師はどのようにしてこれを取り除いてくれるのかとドキドキしながら待っていると、曲がった金属の棒の先にガーゼを巻きつけた道具を持ってきました。それを喉の奥に突っ込もうとするのです。

「オエー、オエー、オエー」と私。
「はい、もっと肩の力を抜いて」と医師。
結局、なんどやってもガーゼを巻きつけたやや太めの棒は、私の喉の肝腎な所には届きませんでした。
それでどうなったかと言うと、その医師の挑戦はそこまでです。
「そのうち落ちるでしょう」
(そんなぁ、私はいま痛いんですよ)
(つばを呑み込むにも不自由なくらいなのに)
(何とかしてください)とは言えなかった私です。
白い牛乳のようなうがい薬を処方されました。それも大瓶一本も!高さ二十センチくらいで茶色のあの薬ビンをまるまる一本ですよ!
会計は後日の日中に支払いに来るように言われて、私は公衆電話でタクシーを呼び、けっきょく何の解決にもならなかった病院をスゴスゴと後にしたのでした。

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さてさて私の乗ったタクシーの帰ってきた所はというと、ラーメン屋の駐車場です。そこから自分の車を自宅まで持ち帰らねばなりません。
喉は相変わらず痛みます。
(そうだ、この事実はラーメン屋の店主に伝えておいたほうがいいだろう)
(のちのち同じ事故が起こらないとも限らないし)
(そう言えばラーメン代もまだ払っていなかったな)
車に乗り込む前に、私は店に入って行きました。

「先ほどは救急車を呼んでいただきましてお世話さまでした」
「はあ・・・」と店主、目をぱちくりとさせて薄ら笑みを浮かべたまま、じっと私の顔を見るだけで後の言葉はありません。
店の従業員二名も興味津々こちらを見ているが、何も言わない。
「実はあれね、歯の被せ物と言いましたが、アサリの貝殻だったんですよ」
「ちょうど三角形の破片でね、この喉の中央あたりに三角形の頂点が刺さってるんです」
「はあ、そうですか・・・」またまた店主も店の従業員も言葉なし。
(客が店のラーメンに入っていた貝殻を喉に詰まらせたというのに、言うことはそれだけか!)
といささか腹がたってきた。がしかし、そこは押さえて、
「お代、まだでしたね?おいくらですか?」と言うと
「はい、ちょっとお待ちください」と店主はレジ打ちに行くではないか!
ハッキリ言って私も子供二人も、ラーメンには殆んど手をつけていない。おまけに私は、そこの名物ラーメンの貝殻が喉に刺さって救急車騒ぎまでさせられている。詫びの一言、見舞いの一言くらいあってもバチはあたらないだろうに・・・。

「代金はけっこうですよ。どうぞお大事に」
そんな言葉が返ってくるかと、ふとそんな考えが脳裏をかすめたけれど、母子家庭の母親の哀しさ、そんな場面でさえ強気には出られない。
二千円なにがしかの代金を支払い、スッキリしない気持ちでその店を後にしたのです。

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さあ、はなしはここで終わらないのです。
何しろ私の喉にはまだ、あの貝殻が突き刺さっていて唾を呑み込むのさえ不自由している状態なのです。

自宅に帰ってきても、そこには小学3年生と保育園年長児の子供が二人心配そうに待っているだけです。ここで私に何かあったら、この子供たちの面倒を見てくれる当てはありません。もちろん、私の看病をしてくれる人の当てなど全く無いのです。
その前年の春に夫が亡くなった後も、私は郷里に帰らず、親類縁者から遠く離れたこの地で生活することを選んだのですから。
意識はハッキリしている。体は動く。しゃべることはできる。喉の痛みと呑み込みができないことを除けば通常の行動はできそうです。
私は改めて、冷静にわが身のおかれている状況を把握することにしました。

それにしてもこのままでは眠ることもできそうにありません。
時刻はすでに、深夜0時近くになっていました。ラーメン屋に行ったのが夕方6時前後。もうかれこれ6−7時間、一片の貝殻のせいであちらこちらに走り回っていることになります。

それまで自分自身は病気もせず怪我もなく過ごしてきているので、「いざ病院へ」となるとどの程度が救急でどの程度なら翌朝まで待てるのか判断の目安がわかりません。
ひごろ丈夫に暮らしていると、たまに痛かったり苦しかったりすると大げさに考えてしまいがちのような気がします。
とは言え、喉の痛みは早く何とかしたいので私は自宅近所にできたばかりの大学病院に電話してみることにしました。電話帳で番号を調べ、夜間救急につないでもらいました。

その大学付属病院には、開院まもなく何度か受診したことがあり診察カードがつくってありました。これもラッキーなことでした。電話口で診察カードの有無を訊ねられたのです。受診後にわかったのですが、その病院にカルテがあるということが受け入れてもらえるひとつの条件を満たしたのではないかと思いました。

夜間救急受付の電話で即受け入れの承諾を得て、私は車を運転してその病院に行きました。救急の入り口からおそるおそる声をかけたところ、看護婦と医師が診察室で待っていてくれました。救急車で運ばれた病院とは大した違いの扱いです。

さっそく事情を説明し、ここでも再びレントゲン写真を写しました。その写真を見て、医師が胃カメラを使うことを私に説明してくれました。
さあ大変です。私は胃カメラなど呑んだことがありません。そもそも、医師がよく使う舌を押さえるあの金属のへらでさえ苦手なのです。通常の診察でもあれが出てくると恐怖です。どうしても緊張して「オエ、オエ〜」とえづいてしまいます。
「さあ、そこの診察台に横になって下さい」
言われるままに細長いベッドに横になりました。医師が手にしている胃カメラを見ると、かなり太い感じがします。こんな物が喉を通過するなんて信じられません。でも、今は緊急時です。ここは我慢我慢と自分に言い聞かせました。
やはり飲み込むことは困難で、医師は何度もトライしてくれたのですが、どうしてもうまくいきません。何度目かのトライの後、
「ちょっと休みましょう」
と言ってベッドのそばから医師が離れました。

「やれやれ何ともはや・・・」
とホッとするやら情けないやらで何気なく喉に手をやり痛い部分に触れてみました。すると、先ほどまでは押さえると痛みがあったのにその感覚が薄らいでいます。唾も飲み込めるようになっています。
「先生、痛くなくなりました」と症状を伝えると、
「じゃあ、もう一度レントゲンを撮ってみましょう」とのこと。
結果としては、何度も胃カメラを差し入れたり引き抜いたりしているうちに、何らかの偶然で貝殻が抜け落ちたのであろうということで一件落着したわけです。
「じゃあ、お会計は後日、日中に会計窓口のほうでお支払いください」と言われて帰宅しました。薬はもらわなかったような気がするのですが、確かな記憶がありません。もらったとしても妥当な分量だったからでしょう。
「あゝ、助かった」
私は心底ホッと胸をなでおろし、この病院の対応に感謝したのでした。

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それにしても、救急車が私を運んでくれた最初の病院での処置は、結局、なんの役にも立っていません。手渡されたうがい薬の茶色の大瓶は癪の種です。このうがい薬は、夫が5年間の入退院生活の間にも常に投薬されていた物でした。練り歯磨きを水で薄めたようなこのうがい薬は吐き出すものではなく飲み込まなければならないのです。わずか、さかずき一杯の分量なのですがその飲み辛さは傍で見ていてもわかりました。夫は、このうがい薬がだいっきらいだったのです。
このうがい薬に関して多少の事を知っていた私は、救急病院で大瓶を手渡された時に断るべきだったと、後になって悔やみました。この薬は一度の使用量が少ないので、私のような一過性の(はずの)傷に対しては小瓶で十分なのです。

これは自宅に帰ってから気が付いたことなのですが、その病院は休日夜間のこととて薬剤師も会計担当もいない状況にありました。医師は命に別状ないと見て取り、その効き目が身体に当り障りの無い薬の瓶を、薬局から無雑作に持ち出して私に持ち帰らせたのでしょう。喉の貝殻はほったらかしのままなのに。
救急車でその病院に到着してからその病院を出るまでの対応に、はなはだ誠意の無い、やる気の感じられないものを感じました。

後になって、救急患者はよくその病院に運ばれるという話を聞きました。それはそれで地域の救急医療に貢献していることなのでありがたいのですが、その評判がいまひとつ芳しくないのです。実際に自分で経験してみて、この病院は真剣に救急医療に取り組んでいるのだろうかと思わざるを得ませんでした。

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ラーメン貝殻事件から15−6年経ちますが、私はその後、そのラーメン屋と救急車で運ばれた病院には一度も行っていません。二度と行く気もありません。

たとえ一期一会でも、『誠意と信用』を持って事にあたる大切さをつくづく思い知らされた出来事でした。
(2002年10月30日)