文章講座課題文「風の姿」 (1989年)


私が初めて竜巻を見たのは、小学生のころの下校途中だった。舗装されていない道に、高さ五十センチほど(だったと思う)の逆円すいを描いて、小さな竜巻は、突然、目の前に現れた。それまで、竜巻とは砂漠の自然現象と思っていた私にとって、珍しくもあり不思議な印象を心に残した出来事だった。

今、職場近くの運動場を毎日眺めていると、季節によっては小さな竜巻は日常茶飯であることがわかる。運動場の向こう端で、ドーッと砂が舞い上がると、皆であわてて窓を閉める。こうした砂地の空き地では、砂の動きが風の様を見せてくれる。

ふだん、不平不満の少ない知人が、ふと、こぼした。「私、何が嫌って、強い風ほど嫌なものないわ」。彼女も私も、山陽地方の育ちである。お互い、独身時代を故郷で、結婚後を関東で暮らしている。そんな二人が、「関東の風は強い」という同じ感想を持っている。私の場合、風の強弱が気になり始めたのは、主婦として家事をするようになってから、と思う。だから、本当は故郷にもきつい風が吹いていたのかも知れない。関東地方で経験する風の存在感に比べ、印象は薄いのだが。

おそらく、風のご機嫌と主婦の仕事は親密な関係にあるのだろう。風が荒れると、洗濯物はいたぶられ、物干しざおごと地面にという事態になり兼ねない。そんな日は、窓も開けられぬまま、掃除する気も起きず、ひたすら耐える。やっとひと荒れ収まった後は、家の中はザラザラ、庭先や路上はチリや枯れ葉が吹きだまっている。「風は嫌い」と言う知人の言葉は、このような、風の暴力的な面に向けられているのだろう。

しかし、さわやかで柔和な風もある。新緑の柳をそよがせ、サラサラとほおや髪の毛に触れて行く風。青田の稲の葉を、手のひらでなでて行くように吹きわたる風。その行方は、左右に揺れる葉裏の白さで、見える。

風に形は無い。が、日常の風景が動く時、そこに確かに風の姿を見ることがある。