医者と患者



海外で医療のお世話になったことはないので正確な比較対照はできないし、そういうつもりでこの一文を書き始めているわけでもない。ただ、限られた自分の見聞と経験から「ひょっとしたら?」とか「こんな感じは何かおかしいのでは?」と思ったに過ぎないことを書いておきたいと思う。

いつのころからかこの国では、医者という職業がとてつもなく高みに置かれているように思う。「先生さま」「お医者さま」とあがめ、患者は、ひたすらかしこまって医療を受ける。医者にかかるということは人が病み苦しんでいる時であるのに、その上に、失礼があっては良い治療をしてもらえないかもしれない、先生のご機嫌はどうなんだろう、などを気にするという精神的な負担が、意識するしないにかかわらず雰囲気としてある国のように思う。

そういう遠慮が医者という職業を高みに上げ、医者本人もいつしかその気になるという勘違いが生じるもとになったのかもしれない。

健康な時には自信を持って力強く生きている人間も、ひとたび病を得ると気弱にもなるし自信も失い、できれば誰かにこの状態から救い出して欲しいと切に願う。そして、その対象としては神仏か医者しかいない。神仏はさておき、物理的に病を治療できるのは医者しかいない。したがって、病気になった時点で、人にとって医者は神仏よりも確実な救いを頼める「ありがたく、おそれおおい」存在になってしまう。

医者と患者の関係はシーソーに似てはいないだろうか。それまで人間的な付き合いは一切ない者同士が医療の場で出会う。その関係は最初から(頼る者)(頼られる者)という力関係が決まっている出会いである。社会的にどのような活動実績を持つ人間も、いったん病院のベッドに横たわると、心身全てを他人に委ねる患者という立場に置かれる。患者は病という重りをつけてシーソーの片側に座り、相対して座した医者を持ち上げる。シーソーは、高みに持ち上げられてもその下に土台があるわけではない。

このところ医療関係の不祥事が頻繁に報じられるようになった。

どんなに強がっても、人は病気になれば医者にかかるしかない。その時、絶対的な信頼を寄せることができる医者とめぐり合う事は、何ものにも代えがたい幸せだろうと思う。医療関係者には、そのことをしっかり胸に留めておいて欲しいと願わずにはいられない。自分が持ち上げられるのは自分の優秀性の故ではないことを自覚している医者が増えれば、とんでもない医療不祥事は減少するかもしれない。

病気にはなりたくない。が、病気になったら優しくて親切でわかりやすい説明をしてくれる医者に出会いたい。そんな医者と一緒だったら、心強く病気に立ち向かえるような気がする。


(2002/07/07)