「母のちり紙」

 母のエプロンのポケットには、いつも、くしゃくしゃに丸まったちり紙が入っていた。それは何回も、母のポケットから出たり入ったりしていた。子ども心にも私は、そのちり紙はいつ捨てられるのだろうと不思議だった。

 農作業にくっついて田んぼや畑に行った時など、子どもの鼻水をぬぐい、目やにをふき取り、口のまわりの汚れを落とす。そしてまた、そのちり紙は母のポケットへ。

 今考えると、決して衛生的とは言えそうにないその行為だが、なぜか、私の心の中には母の思い出として肯定的にしまいこまれている。

 戦後生まれとはいっても、まだまだ物の少ない時代に育った私は、我が子たちを育てた近年ほどには新しい物を買ってもらえることは、めったになかった。

 学校で使う教科書や道具なども、兄姉のお下がりで済ませることが多かった。口にこそ出せなかったけれど、恥ずかしく淋しい思いも味わったように思う。

 最近は、ちり紙に替わってティッシュペーパーが主流になった。箱から飛び出している一枚を引き抜けば次の一枚が飛び出してくる。まさに「使って、使って、どんどん使って」と言わんばかり。見ていると、サササーッといっぺんに二・三枚を引き出して一度に使ってしまう人がいる。

 今では私もこのティッシュペーパーのお世話になっている。だが、ティッシュ一枚使うたび、同時に気も使う。まちがっても、サササーッと二・三枚を無雑作に引くことはないし、さして汚れてもいないティッシュペーパーを、ポイッとごみ箱に捨てることには抵抗を感じる。やはり、丸めたちり紙を何度も使っていたあの母に育てられた娘なのである。

 たかがちり紙一枚の話なのだが、そこに、新しい物に注ぐ神経の使い方の今昔を見る思いがする。

(2003年4月20日)