2024年(令和6年)8月27日(火)  赤口      晴れ   一時雨

 「言葉の乱れは諸事の乱れの入口」などと言ってはいけないのだろうか?私は、言葉を道具にしているメディアにこそ言葉の使い方には気を付けてほしいと思う者である。

 目に余る(耳に余る?)民放テレビ局が一局ある。最近ますますひどくなっているような気がする。その場面に遭遇するたびに(先輩アナウンサーによる指摘や指導はされないのだろうか?)と不思議でしょうがない。

 以前わたしがナレーション教室を受講した際に受けた指導のことを思い出す。私は地方出身なので単語の読みに関する抑揚や発声の強弱などに癖がある。それらは都度、指摘を受けて標準語と言われる発語に訂正するという繰り返しを経験した。趣味の受講者にさえ講師の指摘は容赦なかった。

 そうした指導はプロのアナウンサーには職業訓練として必須だと思うのだが、最近はアナウンサーの先輩や講師もパワハラと受け取られることを恐れて、厳しい指導はしないのかもしれないなあ……と勝手に想像している。あのテレビ局の番組では一様に、街中の若者が仲間内で使うような言葉の延長のような話し方をしている。


 まあ、発語するほうもそれを聞くほうも言葉なんて気にもしない時代だから問題にはならないのかな。そもそも言葉すら発しない人間が巷に溢れている昨今だからなあ……ホンっとに、必要なことすら喋らない人間が増えたなあと感じるこのごろ。


 言葉を失えば、人が人として在るために大切な全てを失うことになるかもしれないよ。


2024年(令和6年)8月25日(日)  仏滅       曇り  のち  晴れ

 最近は時間があるとテレビばかり視ている。そのため、情報はほとんどテレビによるものに偏っている。とはいえ、この年齢になるとテレビの情報がすべて正しいと信じ込むほど無邪気ではないと思っているが……

 最近視た番組で沖縄の不発弾処理の現状を報じていた。
 現在は自衛隊がそれらの処理任務にあたっているそうだが、40cmくらいの不発弾が年間約4万発、毎日のように1件から数件の処理対応に臨んでいるそうだ。このペースでいくと全てを取り除けるのは70数年くらいかかるという。全ては太平洋戦争末期に米軍がバラまいたものだ。

 今、ウクライナやガザに爆弾の嵐が降っている。東南アジアも不穏な国情の土地も多くある。

 戦争とは、なんと愚かな所業であろう。

 たとえいますぐに停戦が実現したとしても、その地が直ちに安全な暮らしの地にはならないということを、沖縄の不発弾処理の現実が教えてくれるが、そんなことは、戦争を命令しておきながら自身は安全な場所に身を潜めているような卑怯者の念頭には浮かびもしないのだろう。



2024年(令和6年)8月24日(土)  先負       晴れ

 今日と明日は夏季休暇で休み。

 久しぶりにEテレの番組でフランクルの話を視聴した。アウシュビッツから生還したユダヤ人で『夜と霧』の作者である。その番組の中で私の心に刺さった言葉をここに残しておきたい。

 「それでも人生には意味がある」というフランクルは「この世界には【品格のあるまともな人間】と【品格のない人間】が存在する」と言う。そうでありながら、両者が混在して人類を形成しているのであって、どちらかを排斥しようということではないらしい。この二分類が、現在の世界状況の混乱を理解しようと努める時に明確な示唆を与えてくれたように感じた。

 国内外を問わず、今は【品格のない人間】が横暴の限りを尽くしている時代ということなのだろう。

 【品格のあるまともな人間】というのは自分の存在と同様に他者の存在を尊重できる人間であり、【品格のない人間】とは自分の存在と利益や欲望のみに関心があり他者の生死など眼中にない人間ということだと、私なりに解釈する。

 最近のニュースは本当に辛いことばかりで胸が痛む。

2024年(令和6年)8月14日(水)  大安       晴れ

 岸田首相が次の総裁選挙に出馬しないと表明したニュースを聞きながら一文したためている。

 岸田首相任期期間中の仕事ぶりに対する評価をできるほどの見識を持ち合わせていないので、そのことについて何かを語ることは私にはできないが、現在の政界全体へのイメージから言わせてもらえるなら、世代交代必至だし金と肩書に涎をたらすような意地汚い人物には早々にご退場いただきたいとは思う。その先駆けになるのなら、今回の岸田首相の退陣表明は潔いことに思える日が来るかもしれないと思った。



 最近テレビで見かける女性の目がパッチリし過ぎて気持ち悪いと個人的には思うのだが、次から次に女性アナウンサーの目が一様に黒目が丸々見えるようになって、ボンヤリとながら感じるこの違和感はどうしたのかと考え続けている。

 まず思ったのが「感情が感じられなくなる」ということ。

 では、目のどこに感情が表出しているのだろうかとよくよく観察してみた結果、素人観察ながら上瞼に感情の揺れが出るような気がしてきた。二重瞼の整形は、その上瞼をいじる手術なので、ドングリ目になった人が無表情に感じられるのはそのせいかもしれないと自分だけで納得している。

 内面からにじみ出る人柄で人の表情は十分に美しく見えるものだと私は思っているのだが、人はそれぞれ価値観はそれぞれ、整形費用に手が届く女性にとってはアニメ少女のようなビッグ・アイになれるものならなってみようとするのは仕方がないご時世なのかもしれないなあ……

 それにしても、美容整形や痩身願望を熱望しかつ実現している人たちが「独自の美」や「健康」を手に入れているようには私には見えないのだが、「ほっといてくれ」と言われそうだなあ……