2023年(令和5年)12月31日(日)  友引     晴れ            

 今日で2023年が終わる。ここに記録を残すことも間遠になったまま、一年がまた過ぎようとしている。「来年は…」という考えも浮かばぬまま、年を越すことになりそうだ。

 姉が頭の手術をしてからというもの電話で話すたびにその病の合併症で脚が不調であることを言葉強く私に訴える。私は返事の返しようがない。そして姉は「罹ったものでなきゃわからないでしょう」と決めつける。まるで私が同じ病気にならなければ許さないと言っているように私には聞こえる。ときどき、私が姉よりもっと重篤な病になったなら姉は自分の症状と比較して満足するのかと思いたくなる。

 亡くなった義兄も電話で話すたびに「あそこが悪い、ここが不調だ。病院の何々科を受診した。それでこうだった、ああだった」という話が30-40分続くのが常だった。

 さしあたって病気らしい病気を抱えていない私は彼らにとっては憎むべき存在なのだろうか?罪悪感を感じて彼らに何らかの贖罪をしなくてはならないのだろうか?「私にどうしてくれっていうの!」と叫びたい気持ちを抑えて話を聞いてきたが、先日姉には直接こちらの意を告げた。「罹ったものでなければ分からないのはあたりまえでしょう。それが悪いことなの?」と。

 確かに誰も病気には罹りたくない。しかし、高齢になると誰しもどこかしらに何らかの変調・不調が生じてくる。重篤な病の場合もあるし、軽微な変化であったりもする。まあ、いずれにしても遅かれ早かれ命は尽きることに違いはない。


 老いてはどう過ごせばよいのか。避けられない気力や身体の衰えを受け入れながらも、なお、傍に要らぬ心配をかけたり過度に配慮を求めぬ生き方・終い方とは。さてはて、これからはその難題と向き合いながら、いつこの身に降りかかるやも知れぬ終末への病を覚悟しながら、それでもなお淡々と歩を運ばなければならない。これからは自分のことで精いっぱい。血を分けた姉といえどもその苦しみを分かち合うことはできないのだ。

 そんなことを繰り返し考えながら今年を終える。