2020年(令和2年)1月29日(水) 大安 曇り のち 快晴
このところ、中国武漢市から広がり始めた新型コロナウイルスによる肺炎が連日メディアの話題の中心になっている。
中国の正月にあたる春節目前の発表で、既にそれまでに感染を自覚しないままに中国を出て各国を訪れている人もいるようで、
患者の発現は世界各国から報告され始めている。
パンデミック・・・その言葉が頭をよぎる。
元々ウイルスを持っていたのは野生動物(コウモリ・タケネズミ・アライグマなど)だと推測されていることを考えると、
人間も地球上の動物の一種類であることを再認識させられる。
人間による殺し合い(戦争)ではなくても人間は滅亡する危機に瀕することがある。
それも、電子顕微鏡でしか存在を確認できないような微細なウイルスの攻撃なのだ。
人間は決して地球上の最強生物ではないと、改めて思う。
これからどういう過程で収束に向かうのか・・・
事態は始まったばかり。
不特定多数の行き交う電車と駅を利用して通勤している自分にも無関係ではない今回の新型コロナウイルスによる感染。
マスク着用と手洗いに努めるとしても、絶対に安全という保障はなく、これからしばらくは怖々と暮らすことになりそうだ。
多々問題を抱えながら、春には中国の習近平氏の国賓としての来日や夏にはオリンピック開催などが予定されている。
そこにこの新型コロナウイルスの発生の現在。
今年一年の先行きが不透明になっていると感じる。
☆☆☆
映画を観に行った。
「ダウントン・アビー」、イギリスの上流社会を描いた映画。
NHKのドラマでたまに観ていた作品。
韓国映画で、いまオスカーの候補にノミネートされている映画で「パラサイト」という映画があり、
どちらを鑑賞しようかと思ったが、何となく「ダウントン・アビー」にした。
ま、さほどの感想も無い。
2020年(令和2年)1月22日(水) 先負 曇り
きのう美容院に行ったら、担当美容師さんがお休みだった。
白髪染めは来週出直すことにした。
この美容院は予約なしでやっていただけるので、数年お世話になっている。
予約制だと、行けなくなった時の連絡が面倒だし、その日の気分次第の利用もできないのが難。
最初は女性の美容師さんにお願いしていたのだが、いろいろと話しかけられるのが苦手だった。
そこで、途中から男性の美容師さんに変更。
髪型を超短髪に変えたこともキッカケだった。
最初に担当してもらった女性美容師さんもいらっしゃるので、
お店に行く度に、彼女がどう思っただろうかと、いまだに気にかかる。
そんなこと気にしなくても良いのに・・・と自分に言い聞かせるが、
人の気持ちを気にし過ぎる性分は死ぬまで変わらないだろう。
自分の権利や都合を主張することが苦手なのは、
子どもの頃、父親や兄から、彼らの気分次第でこっぴどく怒られ押さえつけられたことが大きいと感じる。
「女だから、変わり者だから」と身内から否定され続けると自己肯定感など育ちようがない。
生涯、傍に気を遣いながら生きてきたような気がする。
その気遣いが建設的な方向に生きていけば良いのだが、大概の場合は良いように利用されたり誤解されたりで終わった。
料金を払ってお客として利用する美容院にさえ過大な気を遣う自分が嫌になる。
その結果、私は、なるべく他人と関りを持つことを避けて人生を歩んできた。
子どもは望まれて生まれ、愛されて育てられなければならない。
つくづくそう思う。
2020年(令和2年)1月15日(水) 友引 雨
まーた雨だ・・・落ち込む〜〜。
しかも、午後は歯医者。
不機嫌な歯科医の投げやりな対応に耐えなくては・・・
気持ちを重くしているもう一つが、義兄の一周忌ご案内への欠席のハガキを書くこと。
甥が一周忌ご案内の電話をくれたことの伝言を聞いてから、早や二日が過ぎた。
電話で返答をするのは避けたい。(余計なことまで喋ってしまいそうで)
かと言って、ハガキにどういう文章を書けば良いのか、悩む。
疎遠な親戚との付き合いは難しいなぁ。
☆☆☆
何とか一周忌欠席のハガキを書いた。
衰えた頭脳から言葉を絞り出して、相手に失礼のないように書けただろうか?
他人にお断りをするのはとても難しいと思う。
過去、私はお断りが上手くできなくて、無理をしてでも引き受けることが多かった。
だからと言って私の無理が功を奏して相手との距離が縮まるわけではなかったのに・・・
もう無理はできない。
そういう年齢になっている。
これからは、できる範囲でできることしかしないことに決めようと思う。
「善い人」と思われたいが故の無理はしないと決めた。
2020年(令和2年)1月14日(火) 先勝 晴れ
今日は休み。
片付けなくてはならないことはありながら、一日ボンヤリ過ごした。
正直言って「もういいよ」と言いたくなることばかりが相次ぐ。
みんな勝手だなあ・・・
2020年(令和2年)1月7日(火) 赤口 晴れ のち 曇り 七草
年明け早々からメディアが取り上げる話題は、
年末に国外逃亡した保釈中のカルロス・ゴーンの件と、
イランにおける重要人物を殺害したアメリカとの今後の成り行きについて。
どちらも舞台が中東地域。
この二つの懸案事項がどの方向に進んでいくのか、全く予想がつかない。
昨年まで報道の大部分を占めていた朝鮮半島の問題は一気に数が少なくなっている。
世界中で「やりたい放題」の事案が勃発し過ぎているような感じ。
ルールにのっとった抑制的な判断が踏みにじられているとしか思えない。
これでは人心の安寧は望むべくもないだろう。
アダムとイブが蛇にそそのかされて「知恵の果実」を食べてしまったことで、
人間は賢くなったのではなく、逆に愚かになってしまったのかもしれない。
私は、具象的な神仏に全身全霊で帰依するほどの宗教心は持ち合わせていないが、
抽象的な哲学としての宗教の存在意義はあると思う。
それを食べると楽園には住まわせないと神がアダムとイブに忠告したのは、
人間には知恵という偉大な力は使いこなせないということを示唆していたように思う。
にもかかわらず、人間は「知恵の果実」を食べてしまった。
食べてしまったからには、もう楽園には戻れないのだから混沌の世界を自らコントロールしていくしかない。
知恵には悪知恵という側面もある。
悪知恵の巧みな者が台頭してきているような感のある世界中のいま。
傲り過ぎた人類にお灸をすえるべく、今、世界中の神々が冷ややかに、
天空から成り行きを眺めているような気がしてならない。
2020年(令和2年)1月3日(金) 友引 晴れ
午前3時過ぎ、突然の地震警報が!
千葉県と茨城県の県境付近沖が震源。
震度4が最大震度だと報じられたが、当地ではそれほどの揺れを感じなかった。
その時聴いていたラジオ深夜便も、通常放送を中断して緊急アナウンスが入った。
今回は何事もなく終わったけれど、
近い将来に起きるかもしれない地震の予兆ではないことを祈るばかり。
☆☆☆
年間を通して唯一の長期連休である年末年始休みが終わった。
3日間好天気に恵まれて、穏やかに過ごせた。
明日から仕事。
淡々と歩みを進めよう。
2020年(令和2年)1月2日(木) 先勝 晴れ
新年二日目の今日も晴れ。
さぁて、昨夜どんな夢を見たっけなあ・・・
昨夜見た夢が初夢のはずなんだけど、ま、いっか。
今日は、午後チョロッと買物に行っただけで、ほとんど何もしないで一日が終わる。
本当は、終日、布団の中でウトウトしながら終えたい願望があるのだが、
私の性分からして、それは無理なのだと自覚している。
一日中布団の中でウツラウツラなんてできそうもない。
最近のテレビは本当にツマラナイ。
視聴者を笑わせようと努力している形跡は認めるが、
努力が見えてしまうと笑えないのが視聴者。
笑わせてくれなくて良いから、真面目な取り組みの番組を制作できないもんかねぇ・・・
2020年(令和2年)1月1日(水) 赤口 晴れ 元日
つつがなく新年を迎えた。
今年はどうなる、これからはどうなる、というテレビの議論を聴きながら、
そうそう楽観はしていられないこの国の行方を想う。
昨年感じたことは日本人の教養の低下と会話能力の欠如、人間としての包括的な能力の衰退。
徐々に世界にはびこり始めたモラル無視の風潮。
ルールは破られ放題となって、無法な言動は「やったもの勝ち」になっている。
こんな状態が進行して、人類は滅亡に向かうのだろう。
「ノストラダムスの大予言」の時期はとっくに通り過ぎているが、
あれは、あるピンポイントの年月に起こることではなく、
人々が気付かないうちに徐々に進行していく状況の予言だったのかもしれない。
今もその過程の途中にあるように思える。
カオスの時代は、既に始まっているのだろう。
☆☆☆
初詣は元日に済ませるのが一番だと思いつつ、
あの行列に並ぶことを考えると、人出の少なくなる頃を選んでの神仏詣でがここ数年続いている。
晴れがましい行事ごとが苦手で、できればそうした雰囲気を避けたいということもある。
今年は気力体力がそこそこ平常値で、天気も良し、元日に初詣することにした。
それでも、最初のお寺では、真正面から拝みたい人の列を避け、脇からそっと拝み、
次の神社では、日中の大行列を避けて、映画館で「男はつらいよ お帰り寅さん」を観て時間をつぶし、
行列が日中の半分位になった夕方6時に参拝することとなった。
神事・仏事を省略することの言い訳にしているのが、
子どもの頃に耳にした大人の言い草「死に仏さんより生き仏さんが先ということもあるけえの」。
実際、一人で生計を維持していると、行事ごとを世間様と同じようにはできないことが多い。
そのことに罪悪感を抱いたこともあったけれど、できないものはしょうがない。
経済的にも肉体的にも、他人さまと同様に神事仏事を執り行わねばという考えは捨てたほうが良いと決めた。
今を一生懸命生きる。
「死に仏さんより生き仏さん」は、その決意を後押しする言葉になっている。