2017年(平成29年)1月20日(金)仏滅       曇り           大寒



大寒の名の通りここ数日は寒冷な日が続く。


★★★

過ぎ去った日々の厭な出来事は思い出さないほうが良いと分かっていても、たまにふっと甦ることがある。
というか、厭な思い出ほど強烈な記憶であることの方が多い。

私は子供の頃から人と交わることが苦手だった。
その為に、周囲の大多数が常識とする考えや行動にすんなり馴染めないことが多かった。

「なぜそうしなければいけないのか?」
「そうしなければどうなるのか?」
「自分はこう考えるが、それはなぜ否定されるのか?」
等の疑問に対して納得のいく答えを示し解説してくれる大人が周囲にいなかった。

常識だから・・・とか、皆がそうしているのだから・・・という物言いには常に懐疑的な私。

その結果、現代ならイジメに分類されるような扱いを常に受けてきた。
それは大人になってからも続いた。

しかし、今なら分かる。
私を冷淡に扱い嘲笑し仲間外しにした人たちの行動の意味が。

私は自分が悪いのだと思わされ、ならどうすれば良いのかと考え続けてきたが、
考え方が狭量で意地悪だったのは彼らだった。



誰かの手に握られた筆で描かれる一色べた塗りの絵の中に紛れることは嫌だ。
カラフルな色合いが暖かい調和を醸し出す点描画の中の自分色の一点でありたい。

2017年(平成29年)1月15日()大安       晴れ      寒波の影響か寒冷



買物に行ったドラッグストアのレジで、白髪の高齢女性が気色ばんだ声を出していた。
「これじゃないのよ!同じじゃないでしょ!」
見ると、レジ横の台の上に2本の歯ブラシが乗っている。

レジ担当の20歳代と思しき男性が顔を真っ赤にして対応している。
まだ店員になって間もないようだ。

そのお兄ちゃん店員がそそくさと歯ブラシを取替に行き、なんとかその場は収まったようだった。

(違う品だとわめくよりさっさと自分で取り替えて来ればいいじゃん。私ならそうする)


私は、その高齢女性の次に並んでいたのだが、
別の店員がもう一台のレジへ招いてくれて清算を終えたので細かい事情はわからない。

その高齢女性が支払いを終えて帰って行く後ろ姿を見たら、
それなりの今風なファッションを身に着けている。



年取ると癇癪を起こしやすくなるらしい。
それは昔からそうなのだが、
昔は、「やれやれ、またじいさん(ばあさん)の癇癪が始まった」と適当にあしらっている大人を見かけたものだ。

いま自分が高齢者になってみて、癇癪を起しそうになる状況が何となく分かるようになった。

一言では正確に言い表せないが、
自分の思うようにならない心身の衰えへの苛立ちが無意識の怒りになっているような気がする。


最近は“若ぶり”なことに価値があるような風潮が蔓延し過ぎて、
自分の年齢を自覚できない人が増えているような気がする。


(愛される年寄り)になる為には、
ままならなくなった自身を受け入れて、素直に周囲に頼ることも大事なのではと思う。
たとえ「自分でできそう」と思っても、あえて、若い者の手を借りる場合もあって良い。

ただ忘れてならないのは感謝の表現

人のふり見てなんとやら・・・

一人前の高齢者になるのも難しいものだ。

2017年(平成29年)1月14日()仏滅        晴れ  のち  曇り  寒波



各地に強力な寒波が襲来しているとテレビの天気ニュースで言っているが、
ここではそんなでもないじゃない・・・と高をくくっていられたのも今日の午前まで、
正午過ぎから西の方に黒い雲が広がり始め、少々強めの風が吹いて冷えてきた。


★★★

昨日は、今の仕事を臨時職員として4月からも続けたいと採用面接を受けてきた。

面接担当の男女二人がマニュアル通りの対応をしているのが面倒くさいと思いながらも、
彼らも仕事だからと気持ちを抑えて面接を受けた。

ただ、仕事内容に関して熟知しているのはこちらということもあり、私から待遇や仕事内容への質問は無し。
一人15分間の設定時間中、ほとんど私の話で終わった。
喋らずに殊勝な態度で臨むつもりだったが、
この場でしか現場の状況を伝えられないだろうと、この仕事への現場管理職の無理解と偏見などを抽象的に語ってきた。

採用担当者にこちらの言いたいことが伝わったかどうか分からないが、
言いたいことは言わせてもらってということで良しとしよう。

★★★

このところ続けてアメリカの女流詩人メイ・サートンの日記を2冊手にしたが、
翻訳された文章が読み辛くて読了せずに図書館に返却。

メイ・サートンの日常を記述した日記の内容にも、あまり気持ちを惹かれなかった。

やはり、文化環境の違う国の日常生活観には隔たりがあるということ。


こんどは、山折哲雄:著 『「ひとり」の哲学』を借りて読んでいる。

2017年(平成29年)1月8日()仏滅       晴れ  のち  曇り   のち   雨



午後2時過ぎから、天気予報通り雨が降り始めた。

午前中に買い物を済ませれば良いものを、
降り始めてから出かけるなんて間抜けだと言う人もいるかもしれないが、
主婦の仕事とは予定通りに事が運ばないのが常。


★★★


夕刻、食事の支度に取り掛かろうとしているところに義兄から電話あり。

義兄は85歳。
昨年秋、血液の病気を発症した。
義姉は70余歳だが、少々認知症が疑われる傾向にあり、義兄の看病にあたるには不安がある。

実のきょうだいであれば、何を置いても駆けつけて力になりたいところだが、
義理の関係となると、そこは微妙になってくる。
余計な手出しが、必ずしも感謝されるとは限らないから。

いまの私にできることは、電話で義兄の話相手になることと、
いつでも手を貸す用意があることを伝えることくらい。


近しい人間が次々に高齢変化を来すのを目の当たりにする度に、
常日頃から、人生の総括をしつつ老齢を生きる大切さを痛感する。

高齢になると「今日が今生最期」と思いつつ暮らせば間違いない。

2017年(平成29年)1月5日(木)先勝      晴れ   強めの風吹く            小寒



成田山新勝寺へ初詣。

古いお札を納めて新しいお札をいただいて来た。

菩提寺への年始お付届けも届けて、
これで年始のあれこれは一段落。


神仏への帰依の意識は比較的薄い人間だったと思うが、
夫が早逝して墓を建立したことで、寺との付き合いは否応なく始まり継続することになった。

実家の両親がしていたほど神事・仏事をまめに務めているわけではないが、
仏壇に手を合わせ、神に祈るという習慣が自然に行えるようになったのも加齢ゆえか。

家内安全を祈る気持ちに偽りはない。
神様、仏様、今年も我が家族をお守りください。

2017年(平成29年)1月3日(火)大安      晴れ



あっという間の正月休み。
明日からは仕事。
とは言っても、今週は一日のみで木曜日からは再びの五連休。

今年は、暖かくて穏やかな三が日を過ごした。

今さら新年の抱負など持ってどうすると言いたいところだが、
今年は少し心に期するところがある。
あまり気負わずに、ごく自然体で取り組むことにしよう。

2017年(平成29年)1月1日()先負      晴れ              元旦



快晴で風も吹かない穏やかな新年のスタート。

まずはご近所の弁天様に初詣。
往復と参拝時間を含め1時間半、歩数にして1万歩と少し。

弁天様には三つ鰐口が吊り下げられている。
その鰐口、真ん中は大で両脇が小。
大きくて真ん中にある鰐口を鳴らして参拝したいと思う人が多いようで、大行列ができていた。
その両脇の小さめの鰐口は空いているので、ここ数年はそちらからお参りするようにしている。
その為、大勢の人出の元旦初詣にもかかわらず、時間は短時間で終えることができた。


夜は、
ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを視聴しながらのアイロンがけ。
今年の指揮者は30代の若さ。
彼に合わせたものか、会場を飾る花々は一つひとつが小ぶりでカラフルな花が多用され、
クローズアップされた時に見えたパイナップルやレモンなどの果物のアレンジも特徴的だと思った。

そして、

NHK Eテレで元旦の深夜に放送される「ニッポンのジレンマ」も視聴。

これからメディアの論客として見かける頻度が増えそうな20〜30代の若い人たちが議論を交わす番組。
数年前に偶然視聴してから、元旦の夜は必ず観るようにしている。

今年は、格差・分断・人工知能などのキーワードを取り上げていた。

長年こうした討論番組を視聴していると、自然にその時代の人や社会空気などの変化を感じる。
今回は、(人間がこの世に生きるとはどういうことか)という視点が避けられるようになったのではないかという感想。
まあ、マス・メディアに登場する人たちは、それなりに活躍の場を得ている人たちばかりなので、
いつの時代も庶民的一般的感覚とは隔たりがあることはやむを得ない。

願わくば、人間が地球上に存在する生命の一種(いちしゅ)であることが忘れ去られないような未来でありますように。