2006/9/17 ()  曇り のち 雨

「セレブ」

今は下火になりつつあるようだけれど、一時期、女性向けの雑誌などで「セレブ」という言葉がもてはやされていた。上流階級志向というほどの意味合いで使われているのかなという受け止め方をしているのだけれど、そこで扱われている情報や画像を見る限りでは、とても“上流”な品格を備えているとは納得し難いものばかりにしか思えなかった。

ちょっと(だいぶかな?)昔には上流社会(=ハイ・ソサェティ)を略して「ハイソ」などという言い方もあった。

ちなみに、「セレブ」は celebrity の略で(有名人)のことである。社会的な成功をした人や俳優など、広く世に名前を知られている人のことを意味する。成功者がメディアに取り上げられる回数が多いほど、その影響力も強くなるのは自明の理。が、その影響が好ましいかそうでないかは知名度とは関係ない。

私はこの「セレブ」という言葉に馴染めない。

こういう人間に見られるためにはこのような服を着なさい、化粧はこうしなさい、セレブになれる伴侶を見つけたいならこんな場所に出入りしなさい等々の記事を見るとガッカリする。こんな記事、だれが何の目的で書き、また、誰が参考にしているんだろうと。

有名人でなくてもいい、上流社会に生まれなくてもいい、素敵な人は隣近所にいる。隣近所の品格ある人は、飾り気はないけれど慎み深くて思いやりあふれる人なのだ。

私は思う、そういう「隣近所の本当に素敵な人」は、決してメディアに取り上げて欲しくないと。メディアがもてはやすことで有名になったその人の人格が変わっていくのを見たくはないからだ。

「セレブ」というわけの分からない言葉に近づく努力をするより、むしろ、「名も無い個人」として己に恥じない凛とした姿勢と生き方について考えてみたほうが良いような気がする。

2006/9/9 ()  曇り

「心動かされたもの」

最近のテレビは面白くないと思っています。虚ろな空騒ぎと根拠なく強がってみせる話ばかりが連日のように電波を占領しているように感じます。そんな中でも、たまに、はっとするような発見をすることがあるのです。

今日は、久しぶりに見ごたえ、聞きごたえ、考えごたえのある番組に出会いました。

「緊急特番!!仰天格差社会ニッポン!〜」テレビ朝日 pm 7:00-8:54

ゴールデンアワーの番組ということで、バラエティ仕立てのような気がしましたが、現在の日本社会の状況とこれからを考える糸口になったと思います。

「秋のヒューマンミステリー2:死亡推定時刻」フジテレビ pm 9:00-11:24

昔、互いをかばい合いながら貧しさに耐え忍んだ兄弟が、長じて、なぜ憎しみ合わなくてはならなくなったか?そこから発展して起こる事件の真相は?

ドラマの合間に挿入される、かつての、貧しいけれど純真な笑顔の子ども達の写真や、真剣な表情で働くかつての日本人のスナップ写真を食い入るように見つめてしまいました。彼らには、現在の日本人が失ってしまったものがあるように感じて・・・

「M フェア」フジテレビ pm 6:00-6:30

今日のゲストは、さだまさしさんと夏川りみさん。この番組中で、さだまさしさんが歌われた「鉢植えの子供」という曲に心打たれました。

(こんなことを書くから煙たがられるのは承知なのですが)私は、インターネットを始めてみて、「もうひと花咲かせようとはしゃぐ大人」の存在の多さに驚きました。まさにそんな大人たちの現象に疑問を投げかけたような意味の詞(ことば)が、この「鉢植えの子供」の歌詞の中にありました。大人気なくはしゃぐ大人を見て、さだまさしさんも何かを感じられたのでしょうか。

今の時代、昔と大きく違うなという点に「大人が大人を引き受けない」「年寄りが年寄りを引き受けない」ことがあるように思います。世代は交代して行かなくては、そして、一段上ったものは、その足場をしっかりと踏みしめて次のステップへと進んでゆかなくては、後から上ろうとする世代の人たちの足場が無くなってしまうではありませんか。

いつまでも10代20代の頃と同じ若さや未来や希望や楽しみ方を目標にしなくても良いではありませんか。成熟した大人には成熟した感性が必要ではないかと、私は思うのです。

もう少しこの歌のことを知りたくてインターネット検索をしてみたところ、この歌は「美しき日本の面影」というCDアルバムに収められているようです。発売は9/13らしいので、ぜひ手に入れてじっくりと聴いてみたいと思いました。

2006/9/4 (月)  晴れ

「奔流(ほんりゅう)」

ほとばしる流れを上手に泳ぎきることは難しい。現に、過去何度も、山に降った雨が一瞬にして下流の釣り人や川遊びの人を押し流すという事故が発生している。また、近いニュースでは土石流という激しい流れに全てを押し流されるという事態もあった。

昨年から、自民党では総裁選に向けた駆け引きが行われている。一番人気は既に決まっていて、応援の輪は日に日に広がっていると聞けば、ご本人はさぞ笑みが止まらず、次第に活力・気力が高揚しているものと、常識的には想像してしまう。

ところが、そのご本人に『やる気の熱』を感じないのは私だけだろうか?

既に、一部のメディアでは指摘され始めていることなのだが、日を追うごとに増す『支援の奔流』に、彼は押し流され始めているように見受ける。

はたして彼は、“いま”総理の座に着くことを望んでいるのだろうか?また、今でなくとも、いつかは総理にという意志があったのだろうか?

9月で座を去る現総理が、あまりにも周囲の声に耳を貸さずに突っ走る方針を継続するという特異な存在であったが為に、その間じっと声を殺して忍従していた人々の勢いが、(見る限りでは)常識的な人間であろうと思われる“一番人気総理候補”の元に『奔流』となってなだれ込んでいるという図に見える。彼の足はもう、自らの意思とは関係なく、地面から浮き上がり、あれよあれよと言う隙(ひま)もなく高い御輿の上に祭り上げられるところのようだ。

彼が、他人の気持ちを汲める、また他人の話も聞けるという常識人であればあるほど、この事態というのは困惑の種であり重荷以外の何ものでもないだろう。この人には、(人気あることを良いことに突っ走ってやれ)という鉄面皮さは見受けられない。

5年間を、放たれた矢の如く「我が意」のままに駆け抜けた前任者の“やったこと”“やらなかったこと”の後始末は、素人が考えても容易ではないことが予測できる。

奔流に押し流されるということは、自然現象にしても人為現象にしても、恐ろしい事なのだと毎日の報道を眺めながらつくづく考えさせられる。