2006/8/24 (木)  晴れ

「優しく、易しく、丁寧に」

*日傘の先端で販売員の目を突き刺した。
*土手で語り合っていた高校生を殺傷した。
*生後二ヶ月の我が子を殺した。
*何者かによると思われる、自動車への放火が相次いだ。

等々・・・

暑さのせいもあるのでしょうか、人々が皆、いら立っているように感じます。

人はいら立つと、過激・暴力的な事象に走りやすいのかもしれません。自分でそのような行為を実行できない場合は、誰かが代わってバシッ!と切り捨てるような言動をしてくれるのを見て溜飲を下げるということもあるでしょう。

その一例と思われるのが、もうじき任期満了で退陣を表明されている“あの方”の人気の高さではないでしょうか?記者団の質問に対して、自分の考えを理解してもらおうという気持ちは伝わって来ない、まるで「切って捨てる」かのような物言いは、これが私たちの国を束ねる人なのかと、いつも悲しくなります。ところが、何かにイライラしている人々にとっては、この「切り捨てる」ような言動が実にスッキリするようです。

インターネット上に数あるブログやホームページ上のテキストも、人気を得るのは、スパスパと軽快に事象を切り捨てるような書き方のものが読み手を喜ばせているように見受けます。
フィクションまたはエンターテイメントとしてなら、ある程度は良いかもしれませんが、人気を得んがためにそれがエスカレートすることがあっては、及ぼす影響が憂慮されます。

50代以上の世代が、今伝えなくていつ誰が伝えるんだ、ということがありはしないでしょうか?物の無い時代を知っている世代として、どんな事態になろうとも失ってはならないものやことを伝えておかなくては、次の世代の精神がさ迷うことになりはしないでしょうか?

ある出版社の販促担当者によると、夏になると必ず、あの明治の文豪夏目漱石の小説「こころ」が売れるのだそうです。内容を知っていて購入するのか、それとも、「こころ」というタイトルに惹かれるのかわかりませんが、不思議だと思いました。

いま、若い人たちは、疲れた「こころ」の落ち着き場所を求めているのかもしれません。そして、それは、ひょっとしたら50代以上の世代が次世代の人たちのために遺してあげられる“もの”か“こと”かもしれません。

優しく、易しく、丁寧に、若い人たちに伝えていきたい、好ましい日本人の気質や伝統を。

2006/8/23 (水)  晴れ

「県民性」

「人種の坩堝(るつぼ)」と比喩されるのは、多種多様な人々が、ある場所に混在して生活している様子を表し、これまではアメリカはニューヨークの代名詞のように言われてきた。

「るつぼ」とは、複数種の金属を溶かして融合させるための道具のことであるが、人間は、同じ場所に多種多様な文化や歴史を背景にした多数の人々を集めても、ひとつの塊に融合することは難しいことから、最近では「人種のサラダボウル」という言い方も出てきているようだ。

ニューヨークほど目に見える違いは無いが、サラダボウル現象は日本国内にもある。その顕著な例が東京であろう。東京及びその近郊には、日本各地から人々が集まっている。東京は、さながら「県民性のサラダボウル」なのだ。

その東京圏に暮らして早や30年になる私は、さまざまな人々と触れ合い、共感もしたし反感をも抱き抱かれてきた。こちらとしては何ら不都合ないと思ったことがらにも、強い拒否の反応を意識したとき、「なぜなんだろう?」という疑問が残るばかりで、胸にスッと落ちてくる解釈を得られない場合もあった。

そんな時はいつも、自分を見つめなおし原因を探ってみるのだが、やはり、大きな原因は“県民性”の違いに拠るものではないかという解釈が一番納得のゆくものである。

このところ「県民性の日本地図」「おんなの県民性」という二冊の本を読んでいる。これがなかなか興味深い。

私が県民性に関心を抱いたのは、何も今に始まったことではない。生まれ育った山口県という土地の風土や気質が私にそういう関心を抱かせたことを強く意識している。

上掲の二冊の本を読んでいる最中に本棚の整理をしたら、奥のほうから著者の異なる「県民性」というそのものズバリのタイトルの本が出てきた。関心をもって読む本の傾向は変わっていないのだ。

県民性の違いを知ることは、日常の人間関係における不可解事項を理解する上で非常に役に立つ。反目や反感を受けることは、必ずしもこちらの落ち度とは言えない場合があるという事実を認識しておけば、コミュニケーションのトラブルを生じても自信を失わずに済む。

しかし、県民性というのは興味深くて面白い。たぶん、大部分の人は、自分の行動に県民性が大きく影響していることなど意識もせずに行動し判断を下しているだろう。それぞれが、自分の育った土地や自分を育ててくれた人々などの影響を意識して行動すると、ある程度防げるようなコミュニケーション・トラブルがありそうな気がする。

あのニューヨークの形容詞が『るつぼ』から『サラダボウル』に解釈変更されたように、人がその人格形成時に受けた影響というのは、成熟してからはなかなか変えることは難しい。

だからこそ、自分の発想の原点、問題点の着地傾向を決定付ける「県民性」は、もっとそれぞれの人に意識されても良いと思う。そして、それによって反目を深めるのではなく、だからこそ、違うからこそ、話さねばならない、受け入れねばならないことを自覚できたら、人間関係のすれ違いは、すこ〜しだけ、減るかもしれない。

うぅ〜ん、こう書いてきながら、「この問題はなかなか難しいぞ」と感じている。

2006/8/22 (火)  晴れ

「忘却」

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ。」とは、脚本家:菊田一夫の名作ラジオドラマ「君の名は」の冒頭ナレーションの一節である。この場合は、忘れられないことがわかっていて忘却を誓うという筋書きなのだが、人は本来忘れっぽい生きものだと思う。全てを明瞭に覚えていては、50年も100年も安穏と生きてはいられないだろう。

今日、映画「日本沈没」を観てきた。ご存知、小松左京の名作。本も映画も、ずいぶん前に世に出たものだ。今回は、新しいスタッフと俳優による作品。

近年、世界各地では、永久凍土が融けたり、氷河が融けて生活可能な範囲が狭められているとかの報告が相次いでいるらしい。

大いなる自然現象の変遷の脅威。それは、必ずしも他国の出来事と傍観してはいられない事情が日本にもある。火山国日本は、常に、地震と火山の大爆発という可能性と隣り合わせで暮らしている。

ところが、「忘却とは忘れ去ることなり」、その脅威と恐怖を常に意識していてはこの国土の上では暮らしていられない。ということで、比較的新しい記憶の阪神淡路大地震や宮城、福岡などの地震の惨状さえ、既に、日常では忘却の彼方に飛ばしてしまった人が多いだろう。

ま、今日の映画はフィクションということが分かっていて観るのだから、それはそれなりに娯楽映画の範囲で楽しめた。それどころか、内心では(そんな筈はないだろう)(そんなことをしたらこういうことも想定される筈だろう)などというツッコミまで入れながら観ていた。

しかし、現実問題として、本当に大きな地震が来たらどうしようという思いは、時おり脳裡をかすめるできごとではある。特に近年は、うっかりと『忘却』の彼方へ飛ばし去ることのできない課題に感じている。



↑このような『忘却』もあります。
先週、乗り込んだ電車内で見た光景です。
持ち主に忘れられたこの傘は、ポツンと、寂しそうに見えました。

2006/8/20 ()  晴れ  一時  雨


今日は自治会主催の納涼会。
ハワイアンバンドの生演奏とフラダンスを、先日皆で草刈をした芝生の上で楽しんだ。

2006/8/10 (木)  晴れ

「映画二作」


時はいま8月。毎年、この時期は戦争が話題に取り上げられる。それも、これまでは不戦の誓いを再確認するということが当然の論調であったのだが、今年は、その取り上げられ方に微妙な変化が生じているように感じる。

戦没者慰霊のあり方が取り沙汰され、隣国との軋轢が深まっているように思われる。

そんな風潮の中、ロシアの監督が作った作品が日本で公開され、連日、多くの観客が映画館に訪れていると聞いて、私も早速足を運んだ。

その映画は「The Sun (邦題:太陽)」。

先の大戦終息前後の昭和天皇に焦点をあてて、あたかもドキュメンタリーの如くに、プライベート場面を追ってストーリー展開している。

もちろん、これは史実と呼べるものではないだろう。しかし、現人神から人間宣言に至るまでの昭和天皇の苦悩を描いたものとしては、おそらく最初の作品ではなかろうか。

生物学的には同じ人間でありながら、神として恭しく崇め祀られた“一人の人間”の孤独は、計り知れない。あの独特の「あ、そ」という言葉は、あらゆる個人的な感情の発露を抑制した末の言葉だったのか、と推察した。

昭和天皇を演じたイッセー尾形の演技が秀逸。

もう一本、「佐賀のがばいばあちゃん」は、原作者の島田洋七さんとほぼ同年代を生きてきた私には懐かしい場面が多く展開していた。

「貧乏にはな、暗い貧乏と明るい貧乏がある。うちは先祖代々からの貧乏だから気にすることはない」とか「人に気づかれんようにやるのが本当の優しさであり親切というもの」というばあちゃんの言葉が印象に残った。

どんな人間も生きていくことを肯定されていた、こんな時代もあった。いま再び、あの頃の自分を思い起こしたくなるような映画だった。

2006/8/9 (水)  雨 のち 曇り のち 晴れ

「台風7号」


「夕方から関東地方は大雨か・・・」との予報に反して、大した波乱もなく台風7号は過ぎて行ったらしい。

深夜には、そうそうお目にかかれないほどの明瞭な月が、晧晧と辺りを照らしていた。暗闇である筈の空が、月の明かりで、あたかも青空の如くに見えるという、まことに不思議な夜。

哀しくなるほどのことは何も無いのに、ふっと感傷的になったりして。罪作りな満月よ・・・

2006/8/8 (火)  曇り 一時 雨         立秋

「解せない」


(台風7号が近づいているという今日の夕焼け)


マンションの管理組合から臨時集会の召集がかかった。隣の高層住宅の改修工事に関して、懸念される問題に関する説明と住民の意見を求める為の集会。

我がマンションの隣には、二棟の高層(9階と13階)住宅が建っている。ある大手の製鉄会社が、家族向けの社宅として約10年前に建てた物件である。景気の低迷を証明するかのように、その社宅は全戸が埋まることなく、数年前には空家になって以後放置されていた。

ところが数ヶ月前から、その建物の敷地内に工事業者が突然入り、なにやら慌しく多人数で工事が始まった。

今回、管理組合理事の説明でわかったことだが、工事着工の近隣挨拶も無く始められた工事だという。わが管理組合からの問い合わせを受けて初めて、各戸に挨拶の紙とタオルが投げ込まれた。

工事が進行するにつれて、その異様な雰囲気に先行きの不安を周辺の住民が抱き始めたのも無理はない。敷地周辺をグルリと、高さ3−4mの鉄筋コンクリート打ちっぱなしの塀で囲い始めたのだから。それはまるで刑務所の塀のごとき圧迫感である。

簡単な工事概要が記された紙を見ると、130戸に130人の独身社員を住まわせる独身寮だという。その為に、3LDKの壁を取り払い、全戸ワンルームに改修するのだそうだ。

先の持ち主だった大手製鉄会社から買い取った新しい持ち主会社は、コンピューターソフト関連のそれなりに資本力のある企業である。

このソフト会社には、数件の独身寮が他の土地にもあるらしいのだが、そのどれもが高い塀で囲まれ、一種異様な景観を作っているという。

なぜ高い塀で囲うのか?それは、過去に自社のソフト関連の情報の盗難に遭い、それ以来、社長の意向で社宅には高い塀を作り盗難の防止策としているらしい。

解せない。

まるで刑務所のようなコンクリート打ちっぱなしの殺風景な塀は、近隣住民にも不快感を与えるし、それより何より、その建物に住む社員にも不評なのではないだろうか?

安易に結び付けたくはないが、その閉鎖的で非社会的な物事の進め方は、やはり、IT関連ゆえか・・・と。

周辺住民からの工事中断要請にも聞く耳持たず進行する工事は、実は、法律違反の部分は無い。なぜなら、自分の敷地内にどんな塀を作ろうと法に触れないのだ。

要するに、社会通念や社会の常識の範囲で人は行動するものだという前提で法は決められているらしい。しかし、そうした前提も、そろそろ見直したほうが良さそうな社会風潮になっているのかもしれない。

今のところ周辺住民に打つ手は無いに等しい。ただ、最近入居したばかりの一戸建て住宅数棟の人たちは、塀による日照の問題や環境悪化を掲げて反対運動を計画していると聞く。

落語の小噺ではないけれど、「隣に塀ができたんだってね」「へえ〜」とは言っていられない事態なのである。

さて、これからどうなるか・・・不安は募る。

2006/8/7 (月)  晴れ


「猛暑」


「暑いわねえ、これ食べない?」
Kさんが、しろくまアイスを抱えて入室して来ました。
「あら、美味しそう。ごちそうさま」
昼食後の嬉しい差し入れ。

猛暑の動物園で氷塊を抱える白熊の気分がわかる“しろくまアイス”。
ああ、それはちょっと違いますね、ははは。

でも、これをくれたKさんの気持ちは通じる“しろくまアイス”でした。


こんなジャンボな花も咲いています。
いつもの場所に。

暑いけれど、がんばろっと!