2006/2/26 ()  雨

「過(あやま)ちて改むるに憚(はばか)ることなかれ」


故事やことわざを持ち出して話をしても、近年ではなかなか通用しないことは承知の上で、かの孔子先生の言葉を集めた論語の中からこの言葉を引いてみる。

「人間は完全ではないから失敗もする。大切なのは失敗と気付いた時点の身の処し方である。かっこ悪いからとか相手に弱みを握られたくないからとか気付かない振りをしてあわよくば無かったことにしようとか、もろもろの計算に思いを廻らすより、ぐずぐずしないで間違いを訂正し出直すのがよろしい」というほどの意味合い。

昔の人は偉かった。というか、人間は昔から同じようなことを繰り返しながら暮らしているのだと、多くの故事やことわざから窺(うかが)い知れる。

最近感じるのは“逃げる”人が多くなったということ。これは身近に発生した交通事故の例では顕著(けんちょ)である。小さな接触事故でも、いったん車を降りて当事者どうしが声を掛け合うことが当たり前であった時代は次第に遠く過去の懐かしい話になりつつある。このごろはひたすら“逃げる”“逃げる”。

先日、新聞に小さな記事を見つけた。当て逃げした男が現場の目撃者情報から警察に捕まったという話。被害自体は小さなものだったようだが、当てられた車の運転手が逃げようとする車を止めようとした際に片手に多少の傷を負ったという。その場で車から降りていれば物損だけで処理できたものが、結果としては人身事故になり責めは大きくなった。

「一事が万事」。こと交通事故に限らず、自らの失敗を潔く認めて謝罪できる人は今どれほどいるだろうか?はなはだ心もとない。

2006/2/17 (金)  雨 のち 曇り

「消せないメール」

手紙と違い、パソコンでやり取りする個人メールなんて消そうと思えばワンクリックでアッサリ消えてしまいます。消したい意思がなくても、パソコンの不調で消えてしまえば復元するのは至難の業です。そうでなくても、相手の温もりが伝わり難いメールは、なかなか読み返そうとは思わないものです。

とは言いながら、パソコンを使い始めて何年も経過すると、メール履歴には数多くのメールがたまります。残しておきたいものとそうでないものをより分けて、たまに削除の作業をしています。

そんな履歴の中に、どうしても削除できないある友人からのメールが十数通あります。だからと言って、それらのメールを読み返しているわけではありません。正確に言えば、読み返す勇気が持てないのです。

その友人からは、今後二度とメールを受け取ることはできません。彼女は既に故人なのですから。

交わした十数回のメールは、彼女が病を得てからのものです。現実に毎日、職場で顔を合わしている頃には軽口を叩きあって笑い転げるばかりで、真剣な話題には触れずにいたのですが、深刻な病を発病して自宅療養するようになってからの彼女のメールには飾らぬ想いが綴られています。

彼女が故人となってから既に4年が過ぎました。今でもふっとあの笑顔が浮かんでくることがあります。思い出すのは楽しかったことばかり。多少のほろ苦さを伴いながら。

彼女から届いたメールは、私の手で削除することはできません。これから先、読み返す日があるのかどうかもわかりません。でも、私のパソコンの中に彼女のメールが保存されていることは、私にとって大きな意味をもっています。

いつの日か、懐かしい想いに満たされながら読み返せる日まで、そのメールは大切に保存しておこうと思うのです。

2006/2/11 ()  晴れ

「諦める」

「人間、諦めちゃあいかん!」とか「人間、諦めが肝心」とか、まあ、色々言ってくれますねぇ。どちらも間違いではないのでしょう。どちらをとるか、それは、時と場合によります。そして、どちらでも選択できる気持ちの余地を持つことこそ肝心なのかな?

「頑張る」という言葉を簡単に使ってしまいますが、この「頑張る」が曲者(くせもの)です。いつでもどこでも頑張れば良いというものではありません。ピーンと張り詰めきった糸は、それ以上引っ張れば切れるしか道はありません。

「じゃあ、糸ではなくゴムになればいいじゃないか」なんて・・・ゴムだって張り詰められる限界はあるのです。

切れるまでにはまだ多少のゆとりがある。その程度を見極めることが長持ちのコツのようです。その判断を「諦め」と言うのかも知れません。

早く切れることを覚悟で限界を無視して引っ張り続けるか、長く維持する為にほどほどのところで諦めるか、ここが思案のしどころです。

諦めることを罪だと思わずに、一度退いてみると意外に状況が見えてきたりして、その後がスムーズに運ぶこともあるのです。

前へ前へ、より強く、より高く、そんな目標ばかりが価値を与えられた時代もありました。

歴史は決して逆流することなく流れ続けています。今、この時代に、自分はどのように生きれば「人心地」つけるのか、じっくり自問してみたいものです。

時には、潔く「諦める」のも、悪くない。

2006/2/3 (金)  晴れ

「信頼の欠如」

「人間は信用が第一だ、信用は金では買えない」と、幼い頃から親に言われ続けて育った。財産と言えるほどの物や金を持たない家庭の、それが唯一最大の親から受け継いだ宝だと思い、常に胸の中で大切にしてきた。

ところが、「他人(ひと)さまを裏切らないように・・・」と誠実であろうとすればするほど、その生真面目さを利用し美味しいところだけつまみ食いされて裏切られることがあるという事実に泣きたくなるような経験もしてきた。長年の生き方はそう易々とは変え難く、いまだに、信頼しては裏切られるということを繰り返している。

それでも、ひと昔前はまだ、信頼や誠実が価値として認められ好まれることのほうが多かったような気がする。

変わった、たしかに世間の受け止め方が大きく変わった。我が身を削ってでも他人(ひと)さまの為になどという生き方をしている者は、単なるお人好しとして誰かが得をする為の踏み台にされて打ち捨てられる傾向が一般化している。

思うに、「情けは人の為ならず」ということわざの意味の取り違えが話題になったころ、既に社会全体の価値観は精神的な豊かさから物質および金銭的な豊かさへ移行しきっていたのかも知れない。物や金に執着する人にとっては、形のない「情け」さえも他人に与えるなどもっての外という感覚なのだろう。

こんな時代には、改めて「クリスマス・キャロル」という小説に出てくるスクルージのことを思い出してみたくなる。「有り余るほど持って心貧しい」のと「いつも足りないけれども心豊か」であるのと、どちらを選択するかで道は大きく分かれる。

内面は外面に現れる。美しくありたいと願うなら、高い薬や整形手術より心の浄化が一番有効だと思うのだけれど・・・