2005/11/27 (日) 晴れ 「本当にすごいこと」 日曜日の夜11時から30分間、TBSテレビで放送される「情熱大陸」という番組を時々観る。 今日は、「世界大流行の危機・殺人ウイルス研究最前線」というタイトルで、危険なウイルスの研究で世界をリードする業績をあげている日本人研究者をとり上げていた。 関連記事URL http://mbs.jp/jyonetsu/index2.html 鳥インフルエンザの人への感染例がボツボツ報告される昨今、メディアでは、その大流行の危険性をとり上げて警告を発するようになっている。日本ではまだ、鳥の感染はあっても人への感染は報告されていない。しかし、長らく新型のインフルエンザが発生していない状況で、この鳥インフルエンザの爆発的かつ深刻な流行の予測は、専門家の間では大いに危惧されていると聞く。そしてそれは、世界的な大流行の可能性があるらしい。 そういう不安が密かにしのび寄る今、この河岡義裕さんのウイルス研究には大いなる期待が寄せられている。 ウイルス研究における業績や社会的な評価のすごさもさることながら、何よりも感じ入ったのは彼の自然体な人となりであった。 人は往々にして、多くの人から頭を下げられる立場に立つと、それなりの態度に変化して行きがちである。それが、この河岡さんには感じられない。彼は、真に自分の仕事を楽しんでいる様子だ。それをひけらかしたり、勿体を付けたりはしない。 彼は、「どんなに偉い人でもウンコするんです。それを考えると、な〜に威張ってるんだ、なんて気になっちゃいますよね」と明るく笑う。そこには嫌味も気取りもない。 本当にすごいこととは、自分のやっていることの結果や評価を気にせず、楽しみながら着実に積み重ねて行くことなんだなあ。そう言えば、ノーベル賞を受賞した田中さんもそんな人だった。 こんな人は、滅多にメディアに顔を出すことはないけれど、それぞれの場所でそれぞれの仕事に励み、生きることを楽しんでいるのだろう。 |
2005/11/23 (水) 晴れ 勤労感謝の日 「雑感」 小学校1年生の女児が殺害されたというニュースが繰り返し報道されています。なんともやり切れない思いです。 近年、子どもをねらう凶悪な犯罪が増えてきました。捕らえてみれば、犯人も子ども、または子どもに近い若年だったりします。 「一体何故、こうなってしまったのだろう?」と思っている人は多いはずです。しかし、事態は一向に改善する兆しを見せません。それどころか、短絡的かつ残忍な犯罪がますます増えているようです。 狭い世間を生きている私ですが、最近とても気になる事があります。それは、何かの折に触れ合った人々から謝罪の言葉と気遣いの言葉が聞かれなくなった事です。事は小さな出来事が多いのですが、ひと昔まえなら「ごめんなさい」「すみません」「大丈夫ですか」といった言葉が即座に発せられるような場面でのことです。 いつのころからか、先に謝るのは自分の不利になるから避けたほうが良いなどという“常識”が囁かれるようになりました。「できれば・・・」という条件付きだったこの考え方が、いつのまにか「どんな場合も」ということに定着してしまったのでしょうか。 謝るという行為は、自らの非に気付いていなければできないことだと思います。自分が間違っているか正しいかは、常に自らの行為を振り返り見直す習慣が身についていないとできないことではないでしょうか。 自らを振り返るためには、周囲の言葉を受け止める姿勢と周囲の感情に配慮することもできなくてはならないでしょう。 私はいま、至極あたりまえなことをあえて述べ立てているように思います。でも、その“至極あたりまえなこと”があたりまえとして通用しなくなっているのだとしたら・・・考えるだけでも恐ろしい。 ここ最近の犯罪者に関する報道を見聞する限り、悪びれた様子とか涙を流して自らの犯罪を悔やむとかいった表現がなくなっているように思います。そういう彼らに謝罪の言葉を期待しても無駄なような気がします。彼らには何かが欠落しているのでしょう。 そんな人が身近にいるかも知れない・・・という危惧が、冗談で笑い飛ばせない時代になりました。 |
2005/11/20 (日) 晴れ 「“笑顔”の誤解」 このところ韓国人映画俳優ペ・ヨンジュンさんの笑顔が好いと、日本人女性の間でも人気が高く、熱烈なファンが多いという現象がメディアを賑わせている。確かに、彼の微笑みの映像や写真を見て気分を悪くする人は滅多にいないだろう。 タイの観光案内には「微笑みの国」とあり、かの国の人々はきっと、優しい微笑を絶やさない民族性なのだろうと推測され、それがタイという国に好印象を抱かせる要素になりそうだ。 しかし、笑顔が即、私への好意と考えるのは早計に過ぎるかも知れない。 個人対個人のコミュニケーションにおいては微笑みのタイミングが意外な誤解を生じる事もあり得るような気がする。 そもそも笑顔には使い分けがあるのではないだろうか?不特定多数に向けた営業用の笑顔と特定の個人に対して見せる信頼の笑顔の違いである。両者には微妙なニュアンスの違いがあるように感じる。 もしも、笑顔は万能だと信じている人が日常の中で、場の雰囲気や相手の気持ちにかかわりなく常に笑顔を絶やさない努力をしているなら、その人物は笑顔の故に身近な人々からの好感を必ず得ることができるだろうか?ことはそう簡単には行かないところに人間の感情の複雑さがある。 人が人に寄せる信頼感や共感は、“喜怒哀楽”がバランス良く相手に備わっている事を感じ取ることによって生じるのではないだろうか?そうであれば、いつ出会っても笑顔というのは不自然に受け取られる場合もあり得そうだ。 以前、トロカデロ・デ・モンテカルロという男性ばかりのバレエ公演を観に行ったことがある。筋骨たくましい男性たちが、通常なら女性の衣装であるチュチュやトゥシューズを身に付けて「白鳥の湖」などを披露してくれる。しなやかな身のこなしは男性とは思えないほど優雅であるが、そこはそれ、舞踊の途中にはコメディタッチの場面もあり観客をどっと笑わせたりする。 そのトロカデロ・デ・モンテカルロのメンバーの一人にアフリカ系のダンサーがいた。彼の十八番は踊りの最中に客席に向かって「ニッ!」と白い歯をむき出して笑顔を見せることであった。黒い肌に真っ白い歯が対照的で、そのおどけた仕草が観客の笑いを誘っていた。場内に流れた解説ナレーションでは、その笑顔を「貼り付いた笑顔」と名づけていた。 この「貼り付いた笑顔」を日常のお付き合いの場面で見せられるのは辛い。思わず(無理して笑わなくてもいいのに)と思ってしまうこともある。また、(なぜこの人は笑うのだろう?)と疑問を感じることもある。たぶん、その笑顔に“親しむ心”が感じられないからだろう。 “笑顔”は好いものである。しかし、個人的に対面した相手の笑顔には“心”を感じたいと思うのは私の勝手な要求だろうか。 |
2005/11/19 (土) 晴れ 「秩序」 「秩序」とは、(ものごとの正しい順序・筋道)のことであり(社会などが整った状態にあるための条理)だと、手持ちの辞書に記されています。近年、その意味するところの実態が失われた言葉を「死語」と呼ぶようですが、この「秩序」も死語の範疇に入ってしまったのかもしれません。 親は子を、子は親を大切にするのが当然という条理が共通理解されていたのは一体いつの時代までだったのでしょう?年長者にはそれなりの敬意を払うという奥ゆかしさも、いつの間にやら薄れてしまったように感じられます。 「そこどけそこどけ、俺様のお通りだい!」と言わんばかりの人々が溢れ、行くところ何処もかしこも我の張り合いばかりという有様では衝突も多くなるはずです。 今、昭和という時代が見直されているのだそうです。その時代を生きて来た世代は当時を懐かしみ、若い世代は親の世代が生きた時代の輝きに関心を寄せているのだとか。 あの頃にあって今無いものは何でしょうか?「物質的な不足感」「将来への希望」「お互いへの思いやり」等々、さまざま評論されているようです。私は、そんな中に「秩序」も含めたいと思います。 もちろん、過度の秩序尊重主義は慎まねばなりませんが、社会を構成する一人の人間として守らねばならない秩序を意識づけることは重要なことだと思うのです。そのような、思考や行動の原点となるべき事柄が広く行き渡っていれば、昨今見られるような社会の混乱の多少は防げたのではないか、と考えるのです。 自由だ平等だという言葉から勝手にイメージした虹色の幻想に惑わされて、私たちは行き先を見失ってしまったのかもしれません。虹は決して掴めるものではなかった、ということでしょうか。 |
2005/11/5 (土) 晴れ
「Always 三丁目の夕日」と「TAKESHIS'」の二本の映画を観た。
「Always 三丁目の夕日」は、東京タワー建設当時の東京下町を舞台に繰り広げられる庶民の日常。
「TAKESHIS'」は、二人の北野武が交錯する物語展開。
片や、穏やかで人情豊かな筋書きが具体的に繰り広げられ、
片や、唐突とも言える場面転換を繰り返し、暴力的とも言えるシーンの数々は観客を混乱に陥れかねない作品。
「三丁目の夕日」はともかくとして、
北野武は、もともと、自分の作品に関しての評価など求めていないのかもしれない。
死線を超えた虚無感、己が存在の空疎を知ってしまった者の悲哀のようなものを感じさせる。
どちらの作品から多くの問題を投げかけられるかと問われれば、私の場合は北野作品だと答えようか。
それにしても、
「三丁目の夕日」の時代、昭和33年当時、歩行者は道路の横断の際に手を上げていたっけかな〜?
その時代を生で生きてきた者としては、そんな些細なことが気になったりして・・・
2005/11/3 (木) 曇り ときどき 小雨 文化の日
「人心地(ひとごこち)」という言葉がある。
“人心地がしない”とか“人心地がつく”といった使い方をする。
「生きている実感・気持ち・ここち」のことである。
この「人心地」という言葉が、最近ひんぱんに脳裡をかすめる。
私は果たして生きているのだろうか?
大地をしっかりと踏みしめているだろうか?
周囲を見渡すと、これは私のみに限らぬ現象のように思える。
人は独りでは人心地はつけない。
家族が、社会があってこその“わたくし”なのだから、
“わたくし”が一人の人間として人心地つくには周囲との安定した関わりは欠かせない。
その、周囲の安定が揺らいでいるような気がする。
人は、貧富や社会的地位の高低に左右されない、
心の奥深くに在る何かしらに反応して親しみあい信頼しあう。
そこが大きく揺らいでいるのではないだろうか?