2005/09/30 (金)   晴れ





職場の近くで発生した“ひき逃げ死亡事故”の犯人が捕まった。
発生当時、目撃者情報を求めて警察官が私の職場にも訪れた。

いま「秋の交通安全週間」。
道路のあちらこちらに警察官が立ち、交通における安全に対する注意をうながしている。

最近感じるのは、人々の「前へ前へ」とつんのめるような、性急とも言える動き方。
まるで「自分は止まらないぞ。まして、相手に先を譲るなんて絶対にしない」と主張しているような印象を受ける。
多くの人が“強引”である。

“強引”さは“危険”に直結する。
その結果、事件事故が後を絶たない。
そして、加害者は平然と言い逃れをし、逃げる。
“責任をとる”などという、これまでは至極当然だと思われていた事後処理など期待するべくもない。

「交通事故に遭ったら、先に謝るものではない」と囁かれ始めたのはいつ頃からだったろう。
今では、謝らないだけではなく、先に相手を批難攻撃する輩が多くなった。
語調を強めて先制攻撃をする側に非がある場合は、まず円滑な事故処理は望めない。
ぶつけられて負傷し、最悪の場合は死亡に至っても泣き寝入りするしかないなんて、どう考えてもおかしい。

今回の“ひき逃げ死亡事故”の犯人が捕まった事に、ひとまず安堵する。
しかし、責任のとり方を忘れてしまったかのような社会の現状は、
一人の逮捕くらいでは改まりそうもない。

2005/09/14 (水)  晴れ(厳しい残暑)





昔、私が若かった頃、「戦争を知らない子どもたち」という歌があった。
今はさしづめ「歴史を知らない子どもたち」と言えるのかもしれない。
今回の衆議院選挙の結果は、こうした「歴史を知らない子どもたち」が作り出したもののような気がする。

昔、この国に「封建主義」的な風潮が満ちていた時代があった。
若い者や女性などはそうした風潮に抗って、
誰でもが何時でも何処でも自由に発言し耳を傾けてもらえる社会を強く望んだ。

たとえ他国からもたらされたものにせよ、
一時期はそうした「民主主義」的な社会を目指しているかのように錯覚していた時期もあった。
しかし、本質は変わっていなかったのではないかと、今回の一連の騒動をみて思う。

あらゆることは微妙なバランスを保つことで穏やかな進行をする。
極端な偏りは、必ずどこかに歪みを生じせしめる。

「権力」という力は、た易く、「暴力」という言葉に変換してしまいかねない。
明快で短い言葉を解り易いと、手離しで歓迎し拍手喝采することには危うさが漂う。
短い言葉が人の心を揺さぶって良いのは文学の世界。
その場合であっても、言葉の選択や使い方には幾たびもの推敲を重ねなければならない。

「○か×か」「右か左か」「白か黒か」と単純明快に出した結果は全て自分に還って来る。
政治に携わる人間を選ぶ投票をするということは、
そうして出した結果から生じることに責任を持つということにつながる。

投票行動によって、大きくバランスを崩した体制に為政の権限を委任してしまった今、
「一般庶民」という名の私たちは、何らかの覚悟が必要な時かも知れない。

先は、見えない。


2005/09/05 (月)   雨 (降ったり止んだり)





あるひとつの事象に関して、
それを見る人や見る角度によって捉え方が異なってくる、
とは、
多くの人が多くの場面で語ってきたこと。

「ものは考えよう」
簡潔に言ってしまえば、
そう言えなくもない。

なんちゅうことはないさ。
ことは、なるようになる。