2005/02/28 (月) 晴れ
昨年、こんなホームページを続けて何になるのと思い、止めてしまおうと思いました。
人の心のうつろいに、少しばかり感傷を抱いてしまったせいもあります。
そんな時、「ジェルソミーナ」の曲がラジオから聴こえてきました。
それは、フェデリコ・フェリーニ監督作品の映画「道」の主題歌です。
主人公ジェルソミーナの愚かなまでに純粋な生き方が、
最後の最後になって、荒くれ者の目に涙を誘う。
失ってはじめて、何が自分にとって大切だったのかを知ることほど、
取り返しのつかないことはないでしょう。
一昨日、石坂浩二さんが案内人で世界各地の「道」を尋ねる番組が放映されていました。
高村光太郎は「道程」という詩の中で、
(僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る)と書いています。
数年前には「四千万歩の男」という本にいたく共感を覚えました。
56歳から日本全国を歩き、日本地図を著した伊能忠敬の話です。
念ずれば花開く。
何かを一途に思っていると、
そのことにまつわるあれこれが、
あたかも偶然であるかのように身の回りに集まって来ます。
しかし、それは決して偶然ではなく、
念じ続ける自分自身が多くの選択肢の中から選び取っているのでしょう。
たかだか百年に満たない人一人の人生の間に何を念じて生きていくのか?
また、その為に何を選び取って思考の糧として行くのか?
それは何にもまして大切なことのように思われます。
このホームページも、いまや、私にとっては一本の道かもしれません。
そして今年は、実際に「道」を歩きながらあれこれと考えようと思います。
身を異にする者の心変わりは必然のこと、
あってはならないのは我が心が己の人生を裏切ることではないかと・・・思うのです。
ああでもないこうでもないと打ち悩みつつ、
2005年の2月も今日で終わりです。
2005/02/27 (日) 晴れ 低温
「道」を歩いてみよう。
山歩きも好いけれど、周囲に人の暮らしのある道歩きもいいな、
ずっとそう思っていた。
ある日、旅行案内のパンフレットをめくっていると、お誂えむきの企画があった。
「街道を歩く」というその企画の中から、まずは東海道五十三次を選んでみた。
お江戸日本橋から京の三条大橋までお徒歩(かち)の旅。
毎回約16〜18kmほど歩く行程を数回重ねて京都にたどり着こうという企画。
今日はその第一回目。
午前9時に日本橋を出発して、講師の説明をイヤホンで聴きながら歩く。
晴天なれど気温は低い。
都内は、高いビルの陰になり寒さは尚一層身にしみた。
銀座を過ぎると、それでも太陽の光を浴びながら歩けるようなり、ホッとする。
午後3時、品川寺着。
道路元標(佐藤栄作:筆)・里程標・日本橋の親柱(徳川慶喜:筆)/品川寺の門とお地蔵さま(江戸六地蔵のひとつ)
2005/02/16 (水) 雨
午前4時46分ごろ、茨城県つくば市、土浦市あたりを震源とする地震があった。
震源地付近は震度5-、周辺は震度4〜3。
千葉県柏市では震度4と報じられた。
昨日の昼前、西南西の空に見慣れない雲を発見。
とりあえずデジカメに収めようとカメラを構えた。
そこにちょうど通りかかった知人が、
「こういう雲が出た時には地震が来るって言いません?」と語りかけてきた。
その時には、そんな話は初耳で、そんなこともあるのかと思っただけに終わった。
ところが、今朝の地震の後で、その知人の話が妙に気になり、
あれは地震の予兆ではなかったのか、と思うようになった。
その雲を写した3枚の画像を並べておいてみたい。
2005/02/15 (火) 晴れ
またも若者に襲われた学校。
学校で事件が起きるたびに、犯行の動機は?学校の保安体制は?と問われ、
その犯人を知る人による人物像や家庭環境、在校時代の問題点が取り沙汰され、
今後の学校の警備設備をどうするかという話に終始する。
対象が学校に限らず、このごろは動機不明の殺人事件が多くなったように感じる。
簡単に人を殺したり傷つけたりする人間が増えたということか?
どんなに侵入し難い建物設備を考えようと、こうした犯罪を防ぐ事はできないような気がする。
今一番考えねばならないこと、着手せねばならないことは、人間形成の見直し。
思春期までの教育で何をどのように教えるかを真剣に考えることが大切なのだろう。
つまり、問われているのは『教育』だと思う。
一時代前には、他人に迷惑をかけることが一番やってはいけないことだと教えられた。
今一度、ごく基本的な社会生活態度とも言えるそのことを、
社会の大人がこぞって、幼児期から教え込むことに真面目に取り組まなければ、
この国はどこまでも堕ちて行ってしまいそうな不安にかられている。
自分さえ愉しければそれで良し、などとうそぶいてはいられない時代に、
まずは大人から衿を正して生きなくては、
かつて礼儀正しい国民と呼ばれたこの国の将来は危うい。
2005/02/13 (日) 曇り
裁判員制度を考える番組の第二夜。
じっくり聴こうとテレビの前に座ったけれど、
電話がかかってきて視聴中断。
番組を視聴して、裁判員制度を単に怖れてばかりもいられないような気がしてきた。
確かに、司法の専門家である検事・裁判官・弁護士といえども人の子。
司法とは無縁に暮らす我々も人の子。
そして、被害者も加害者も人の子。
社会は、これらの人々が集まって構成している。
異なる価値観で行動する人間同士のトラブルを調停する目安としての法律。
全ては人間が作り出した制度なら、
人として存在する以上は関わりを避けてばかりもいられないのかも知れない。
とは言え、なかなか難しいことだというのが今のところの正直な感想。
これから先4年間の成り行きを見て行きたい。
2005/02/12 (土) 晴れたり曇ったり
解決を待つ問題が山積している状況の中で、気になっている問題が二つ。
郵政民営化と裁判員制度。
その一つ、裁判員制度をNHKが取り上げていた。
今晩はその第一夜。
ドラマ仕立てで、もしあなたが裁判員に選ばれたら・・・の成り行きをシミュレーション。
予測される問題点を多々盛り込んだドラマだった。
裁判員制度が実施される予定は2009年からだという。
あと4年後には、ごくごく一般的な暮らしをしている誰もが、
一枚の召喚状で否応も無く「人を裁く」役割を担わされる可能性がある。
拒否すれば罰金を科せられる国民の義務。
無作為抽出の為、個人的な事情は通らない。
審理が決着するまでの拘束期間の問題。
課題はあまりにも多く、一人一人の国民が負うものは大きい。
それが、大きな議論に盛り上がる事も無く、数年後に施行されるとなると・・・
背筋に冷たいものが走る。
今晩のドラマのタイトルは「あなたは人を裁けますか」。
アメリカの陪審員制度もさまざまな問題点が指摘される。
「十二人の怒れる男」という映画を思い出す。
ただ、現在の日本の状況で、
あの映画のような、また今回のNHKドラマのような議論と結論が期待できるのか?
いま関心を持たなければ、4年後には、
「ある日突然舞い込む召喚状」は現実となる。
明晩は、第二回目の番組が放送される。
関心をもって、観ようと思う。
2005/02/11 (金) 晴れ 建国記念の日
映画「きみに読む物語」を観る。
鑑賞後、およそ40分ばかりを歩いて帰宅。
途中、畑の中にある墓所の前に植えられた数本のロウバイが満開。
近づくと良い香りが漂って来る。
春は花の香りから。
昨夜は小雪がちらついたとニュースで言っているけれど、
季節は確実に春の気配。
寒さで縮こまっていた体のコリが、
少しづつほぐれていくような気がするこのごろ。
2005/02/10 (木) 晴れたり曇ったり
何気ないひと言が あなたを励ますなら
わたしは探したい 何気ないひと言を
いつでも いくつでも
何気ないしぐさに あなたが安らぐなら
わたしは心したい 何気ないしぐさを
いつでも どんな時でも
あなたの微笑みは わたしの太陽
笑って 心から
笑って 軽やかに
心を覆う黒雲を 吹きとばしてしまえるように
2005/02/09 (水) 曇り
地元のサッカーチームである柏レイソルが不振続きで、
しばらくサッカー観戦から遠ざかっていた。
とは言え、2006年ワールドカップへの関心は高まるばかり。
今日は、アジア地区最終予選の初戦。
相手は北朝鮮チームとなればプラスアルファの関心も手伝って、
今晩はテレビの前から離れることなく観戦応援した。
前半戦にいきなりのゴールは大いに嬉しかったのだけれど、
その後の苦戦にはドキドキするばかり。
後半戦には同点に追いつかれ、どうなることかと落胆しかけていた。
やってくれましたね!
ロスタイムの決勝ゴール。
やれやれとホッと胸を撫で下ろす。
ドイツへ向けての大いなる第一歩。
がんばれ NIPPON !
2005/02/02 (水) 晴れ ときどき 曇り
寒波襲来とかで、日本海側を始めとする日本各地が冷え込んでいる。
寒いのは何も気候ばかりではなく、社会の状況も相当冷え込みが厳しい。
漫画家の中尊寺ゆつこさんが亡くなったと報じられた。
(オヤジギャル)の言葉を流行させた女性。
独特の絵で、痛快なOL描写をした人だった。
あの人もこの人も、辛口に社会を斬る表現活動をする人たちが消えて行く。
訃報を聞かないまでも、高齢の為に社会の一線から引いていく人も多い。
その割には、次を担う人物が出現しない。
メディアで叫ぶ人はいる。
いるにはいるのだけれど、今ひとつ説得力に欠ける。
多数の人の共感を得る為には共有する文化や思想の根本が不可欠。
今の時代、この共通する(文化・思想・観念・慣習)が崩壊しているような気がする。
なぜ崩壊しているのか?
それは、引き継がれなかったことによるのではないだろうか?
どの世代から引き継ぎがおろそかになってしまったのか?
文化・思想・観念・慣習・社会道徳などは、
いったん世代間に断絶の溝ができると、
埋め戻すのは容易ではないように思う。
(オヤジギャル)なる言葉が大衆に面白がって受け入れられたのは、
(オヤジ)と(ギャル)のすることの間にギャップがあることが前提であって、
最近のように(オヤジ)と(ギャル)の間にさほどの差が無くなってしまっては、
面白くも何ともない。
考えてみれば、(オヤジギャル)という言葉が生まれた頃には、
まだまだ嗜みのある女性の方が多かったのかもしれない。