2004/12/31 (金) 曇り 一時 雪
年々、時間の重みが増してくる。
「明日があるさ!」と、うそぶいてもいられなくなった。
ひょっとしたら明日という日は来ないかも知れない、
そんなことを考える回数が多くなっている。
年末になって、職場に回ってきた訃報のFax.。
それは、58歳と51歳の現職の死亡記事。
今日一日にできることは何か、
手応えのある日々を送れるように、
小さな積み重ねを改めて確認しようと思いながら、
暮れ行く2004年。
2004/12/30 (木) 晴れ
今年1年農業ボランティアでお世話になった農家で
餅つきの手伝いをして来た。
午前8時ごろからつき始めて終わったのは午後3時半。
関東地方は四角い“のし餅”。
これは初めての体験。
お鏡の丸餅、こちらは関西人がお手のもの。
久しぶりの丸餅づくりに、関西出身の3人の女性が張り切った。
「昔とった杵柄」とは、まさにこのこと。
子どもの頃に、親の見様見真似で丸めていた感覚は衰えていなかった。
縁を伸ばして真中に集めて、なるべくシワが残らないようにっと!
コロコロクルクル、丸めて丸めて、
最後にポンッポンッと粉をはらって出来上がり!
楽しい餅つきだった。
2004/12/29 (水) 雨 のち 雪
年末も押し詰まって、初雪が降った。
2004/12/27 (月) 晴れ
毎日の暮らしの中に吹き渡る“世間の風”から、
いろいろな空気が感じられます。
このような、公開されたホームページで、
それらに関する逐一を述べる事はできませんが、
あまり芳しくない風が吹いていることは否めません。
私も、大衆の一人として、その風に煽られているわけです。
大衆は数が多いからといっても、
その一人一人の足元が覚束なければ、
故意に起こされた悪意の風に、
まとめて吹き飛ばされるのはた易い事でしょう。
困難や不安が広がりつつある今だからこそ、
個々の各人が、それぞれの足でしっかりと、
大地を踏みしめる事が肝要だと思います。
フワフワと風の中を漂う風船には、
行き着く先は定められません。
2004/12/26 (日) 晴れ
「会うは別れの始め」とか・・・
人と人との出会いがあれば、別れは必ず訪れます。
それは覚悟していながら、いざその時が来ると、
けっこう慌てたり落ち込んだりするのが人の常のようです。
(あゝ、この人は遠ざかって行くなあ〜)と感じる時、
人は往々にして、
去って行こうとする人しか視野に入っていないかもしれません。
本当は、自分から去らないでいてくれる
多くの人たちがいるにもかかわらず、です。
だから、もし、誰かを失いそうになっても、
そのことで自分が一人ぼっちになるかもしれない
などと怯えることはないのだと思います。
去る人を追いかけて自分を見失うより、これから訪れるだろう
新しい出会いに期待をかけて、
視線はまっすぐ前に向けて歩み続けること。
そのほうがずっと、建設的だし健康的です。
心変わりする人の気持ちを変えようとするより、今の自分を
過不足なく受け止めてくれる人を大切に思うことにエネルギー
を注げば、一歩も二歩も前進できるでしょう。
ほんとうに自分を大切に思う人は、相手も同じように自分を大切に
したいと望んでいる事に無神経ではいられないはずです。
「気づける」人は、きっと、近づき過ぎず遠ざかり過ぎず、適度な
距離を保ちながら、長く付き合ってくれるでしょう。
そんな人は、一生の間に、そう何人も出会えるものではないですね。
まずは、自らが姿勢を正していかなくては、と思うのです。
2004/12/24 (金) 晴れ
今年届いたクリスマス・カード。
ありがとう!
穏やかに静かなクリスマス・イブ。
こうして居られることの幸せに感謝しつつ・・・
どんな神仏をも受け入れる文化の日本人であることに、
改めて喜びを感じる。
何事も、前進する為の糧と受け止めて、
後ろ向きになることなく生きよう。
もうじき新しい年が始まる。
2004/12/23 (木) 晴れ 天皇誕生日
今日は晴れていたんだっけ、曇っていたんだっけ?
一日終わってみると、その日の空模様さえ覚えていない。
迂闊に毎日を暮らしているんだなあと思う日が多い。
ザラつく胸の内を撫でさすりながら、
「落ち着いて、こんな時には落ち着くことが大切だから」
と自分に言い聞かす。
どんな失敗をしようとも、一日は終わる。
明日があるさ! そううそぶいてカラ元気を出してみる。
明日は人間ドック。
今晩は、夜9時以降は何も口にできない。
こんな時つくづく、
人は食べる事で気を紛らわすこともある動物なのだなあと気づく。
2004/12/22 (水) 晴れ
午後1時から横浜にて忘年会。
同好の仲間との再会は、嬉しい。
ワイワイと賑やかに騒ぎながら、
1次会、2次会、3次会と、流れ流れて、
帰宅したのは深夜の11時。
午前11時頃に家を出て、午後11時ころに帰宅して、
およそ半日を費やしたことになる。
横浜までは片道2時間、往復4時間。
12時間 - 4時間 = 8時間。
8時間も共に過ごして疲れない関係は貴重。
再びの集いにつながりそうな余韻を残して、
それぞれ帰宅の電車に乗り込んだ。
楽しかった。
左:忘年会会場となったホテル
右:桜木町駅到着時に眺めた横浜の風景
2004/12/21 (火) 曇り ときどき 晴れ
電車の座席に染み込んでいた液体で、乗客が火傷症状を負うという事件が発生した。
あの忌まわしいサリン事件を思い出させるような出来事。
故意か事故か?
末期の肝臓ガンで自棄になった患者が、病院内で殺人を犯す。
病や怪我を治療するべき場所での信じられない事件も発生した。
このところ急激に、人々の心が荒んで行くように感じる。
余裕の無さが人間関係をギクシャクさせている。
「私だけは」「私だけが」と、
自分のことしか見えていない人が増えたのではないだろうか?
人間に限らず、動物にはわが身を守る本能が備わっていると思われる。
とは言え、わが身を守るだけでなく、
他の生物にも気配りできてこその人間だと思いたい。
自分が得をしたいように、他の人も得をしたいのであり、
自分が生き延びたいように、他の人も平穏に長生きしたいと思っている。
自分が幸せでありたいように、他の人だって幸せを望んでいる。
そのことに思いを致すことができなくなったという事は、
すなわち、人間の退化が始まっている証拠とは言えないだろうか?
知的・身体的能力の退化もさることながら、
公共道徳心の退化は人類を滅ぼす要因になりそうで怖い。
最近は毎日、ドキドキしながら暮らしている。
2004/12/19 (日) 曇り
美容院へ行く。
髪を染めてパーマをかけて三時間。
年末だけれども、お店は空いていた。
年々、古来からの日本の伝統行事が行われなくなっているそうだ。
そう言えば、お正月には晴れ着を着て、
気分を新たにするという雰囲気も希薄になってきている。
大晦日まで二週間。
来週あたりから混雑するのだろうか。
経済的な需要や社会の雰囲気は、
人口に占める割合の多い年代に左右されるとは、
どこかで聞いた学者先生の説。
その説に基づいて考えると、
やはり今は、団塊の世代と呼ばれる世代の需要が最も多そうだ。
その世代も、そろそろ還暦を迎える。
その需要を当てこんでか、各地に老人施設の建設が目立つ。
我が家の近所にあったある会社の独身寮が、
何時の間にか介護付き老人マンションになっていたり、
通勤途中の空き地にも、新しくデイケアセンターが建設中だったりする。
そうした施設を横目に見ながら、
自分の老後を考えずにはいられない。
できれば最期まで、
自分の足で歩き、自前の歯で食物を噛み、
ボツボツとではあっても、手先のことなどしていたいと思う。
身だしなみなどもこざっぱりとしていられたら、どんなにか嬉しいだろう。
最近では、化粧や髪の手入れを心理療法として有効とする見方もある。
自ら進んで身の回りに気を配っている間は、
きっと、老いの訪れも歩みを遅らせてくれるだろう。
たかが美容院に行っただけなのに、
こんなことまで気になってしまうとは・・・
こうして少しづつ、老いを受容する準備をしているのかも知れない。
2004/12/18 (土) 晴れ
誘われて、新宿まで小劇団の公演を観に行く。
地下1階の小さな劇場の一番前の席。
俳優がセリフをしゃべる度に唾がとんで来るほどの席。
演目は、鴻上尚史:作 「恋愛戯曲」。
出演者は5名。
熱演は伝わってくるのだけれど、
今ひとつスッキリと理解できない個所が多い。
対比的に、
一流といわれる俳優の演技とは如何に凄いものかを知らされる。
劇場が新宿三丁目だったので、新宿御苑に立ち寄る。
そこで見つけた ↓ こんな物。
茶色のバラの花のようでバラではない。
実はこれ、ヒマラヤシーダーの実。
ヒマラヤシーダーもマツ科らしいので、
これもマツカサには違いないらしい。
2004/12/17 (金) 晴れ
一度歩き始めたなら 引き返せない歩みだけれど
ときどきふっと立ち止まる
私は ほんとうに ここに居ても良いのかと
だれかに確かめたくなる
偉大なるお方よ
私の心の中に ときどき暗闇をお作りになるのは
どのようなお計らいによるものでしょうか?
いずれ訪れる真の暗闇に
私が戸惑わぬように
そこから目を逸らさぬように
とのご配慮でしょうか?
それとも
闇を示すことで いまここにある光に気づけよ
とのお諭しでしょうか?
2004/12/16 (木) 晴れ
細々と続けている通信講座がある。
課題に沿って、思いつくままに勝手なことを並べて書いた雑文。
月に一度、その文章が添削されて手もとに戻ってくる日が、何よりの楽しみ。
講師の先生がたは誉め上手。
どこかしらに目を留めて誉めてくださる。
それがまた嬉しくて、次の課題への意欲につながる。
書いてどうなるという文章ではないけれど、
書くことが私の生きている証であり、
文章を綴っている限り、私は生きる目的を見失わないような気がする。
2004/12/11 (土) 晴れ
12月だというのに暖かいこんな日は、つい、フラリと出かけてみたくなる。
出かければ、
几帳面に刈り込まれた山茶花の生垣に咲いている紅い花も目にする事ができる。
パンジーとハボタンが、お行儀よく植えられた花壇も見ることができる。
暖かさに誘われて、ちょっと得した気分。
2004/12/10 (金) 曇り
桜草の花が咲き始めた。
ピンクの鉢と白の鉢が交互に並ぶ。
そう言えば、
山茶花や椿も赤やピンクや白の花で、今の時季に咲いている。
シクラメンも赤や白の花が思い浮かぶ。
晩秋から初冬にかけては紅白の花色が多いのだろうか?
一方、春先に咲く花色には黄色が真っ先に思い浮かぶ。
福寿草、水仙、菜の花。
パンジーも黄色は比較的早く咲いて目立つ。
寒さの冬は暖色で彩り、
希望の春には、
冬の間に沈み込んだ気持ちを奮い立たせるように、
目に鮮やかな黄色が配色されているのだとしたら、
天然の意思とは計り知れぬ奥深さを秘めているような気がしてならない。
色が人の気持ちに及ぼす影響は、大きい。
2004/12/09 (木) 曇り
昨日の日記に書いた犬です。
左の画像は母犬「たぬき」と雌の子犬。
雄の子犬2匹は、既にどこかに貰われて行ったそうです。
一匹残されたこの子、今日は何となく寂しそう。
2004/12/08 (水) 晴れ
職場の隣の家に子犬が生まれた。
昼食休みを利用して見に行った。
母犬の名前は「たぬき」。
変な名前!ふふふ。
でも、大人しい犬だ。
5匹生まれて、2匹は既に貰われていった。
残る3匹が、囲いの中でじゃれあっている。
雄2匹と雌1匹。
愛らしいその姿を見ていると、
私の頭の中に(子犬のワルツ)が流れてくる。
きっとショパンも、こんな子犬のやんちゃぶりを見て、
曲想を得たのだろうな。
飼いたいけれど飼えない犬。
見れば見るほど、可愛い。
2004/12/07 (火) 晴れ
5日の日記に(新生児の微笑み)について書いたところ、
タイミングよく今朝の新聞に(新生児の微笑)に関する記事がありました。
執筆者は、30年前から赤ちゃんの研究をしている川上清文さん(聖心女子大学文学部教授)。
先生は、脳のどこかに「笑いのツボ」があって、
何らかの刺激を受けて、そのツボが反応して微笑むのではないか?との仮説を立てている。
この場合の「ツボ」は、おそらく器質的なものでしょう。
5日の日記に私が書いた「笑いのツボ」の場合は、
心理的な「ツボ」であり、川上先生のおっしゃる「ツボ」とは異なります。
私は、大人になってからの微笑は訓練と努力で、
その表情を強制的に作らなければならないのではないかと思うわけです。
ここで、私の直感的な理屈と「赤ちゃん研究者」の川上先生の推論を合わせ考えると、
赤ちゃんは何らの精神的かつ知識的なストレスが無い状態と思われる為に
何も外的な刺激が無い状態での“自発的微笑”が可能であり、
知識や精神的な発達をするにつれ(脳に対する外的刺激が多くなる)、
器質的な脳の「笑いのツボ」の機能が衰退していくとは言えないでしょうか?
そこで、
強制的に微笑みの表情を作るということの意味合いですが、
顔の表情を“微笑”に作ることで、
忘れてしまっていた脳内の器質的な「笑いのツボ」が機能するのだとしたら・・・
これはもう、顔の筋肉をマメに動かして微笑むしかありませんね。
顔の筋肉を動かせばリフトアップにもなり表情の弛みも防げるし、
その上、自分も周囲も和やかにできるなら、
“強制的微笑”(=私の造語です)は、一石二鳥も三鳥にもなると言えそうです。
2004/12/06 (月) 晴れ 強風
先週は、この冬初めて、早朝に車のフロントガラスが凍っていたり霜が降りたり、
いよいよ寒さの冬かと身構えれば、突然12月の真夏日が記録されたり、
これはもう人知の及ぶところではないように思われる。
社会的な混乱と自然現象の混乱と、
どちらが先でどのように作用しあっているのか、
あながち無関係とは言い切れないような気がする。
人間も自然の一部。
全ては、なるようになっているのかも知れない。
行く先は、神のみぞ知るということか。
2004/12/05 (日) 晴れ
“微笑み” と “笑いのツボにはまった笑い”の違いは?
散歩しながら、そんなことをふと考えた。
漫才を聞いて笑う。喜劇を観て笑う。誰かの冗談に笑い転げる。
それらは皆、自分の為に笑っているに過ぎない。
つまり、そうした“笑いのツボ”を刺激されての笑いで快感を得るのは自分だということ。
一方、“微笑み”とは、多くの場合、他者に作用する行為だと言えそうだ。
誰かと視線を合わせた時、微笑みを返されるとホッとする。
いつも微笑みを絶やさない人には、何となく安心感を抱く。
“微笑み”は、思いやりとか気遣いといった配慮の為せる技かも知れない。
新生児の頃には自然に微笑んでいた人でも、
成長と共に微笑みを忘れてしまう場合がある。
生きていく過程で、微笑む余裕を無くしてしまった人だろうか。
大人になっても美しく優しく微笑むことを忘れない為には、
常なる努力が必要なんだろうなぁ・・・
2004/12/04 (土) 曇り のち 夜になって雨
「自分の足で立つ」
これが、できそうでできない。
ちょっと優しくされると寄りかかってみたくなる。
4年前にガンで逝った友が、
「あなたを見ていると、茨木のり子さんの詩を思い出すの」
と言って、数編の詩を紹介してくれた。
迂闊にも、
こんな素晴らしい詩の数々と、この詩人のことを
私は、それまで知らなかった。
それからというものは、
この詩を鏡にして、そこに自分の今を映して生きようと思った。
友よ、空の上から見守ってください。
私を見て茨木のり子さんの詩を思い浮かべてくれた
あなたの想いに背かぬように生きてゆきます。
あの言葉を私にプレゼントしてくれた直後に逝ってしまったあなたは、
私のこころを支える“永遠の友人”になりました。
今度は私が、
誰かのこころを支えられる言葉を紡げるように・・・
そうしないと、茨木のり子さんに「ばかものよ」と
叱られてしまいますよね。
「自分の感受性くらい」 詩:茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ