2004/06/29 (火)  晴れ





見上げると、目に痛いほどの光。
例年の梅雨明けにはまだ二〜三週間もあろうかというこの時期、
こんなにまぶしくも暑い日々が続いて大丈夫なのだろうかと、
ふっと不安がよぎる。

「通常」「平年どおり」「相も変わらず」「平々凡々」
等という言葉が、かつてなく重みを持って感じられる日々。

2004/06/26 ()  曇り  のち  晴れ





あ〜(ため息)、あれもストレスこれもストレス・・・
そんなストレスをしこたま溜め込んでの帰路、
「今日の夕食はあのベーカリーのサンドイッチにしちゃおうか」
な〜んて立ち寄ったパンやさん。

30cm四方のトレイにプラスチックケース入りのサンドイッチを二段に重ねレジに並ぶ。
レジは二ヶ所。一列に並んで早く終わったレジへ並んだ順番に移動する。

私が移動しようとした瞬間、
お店の責任者風の年配女性が食パンを棚に並べようと、突然行く手から姿を見せた。
不意を突かれて私の足は急ブレーキ。
その途端、サンドイッチのケースがポトリと床に落ちた。
プラスチックケースはとにかく滑りやすい。

その年配の店員さんが無言で拾ってプラスチックケースを手でパンパンとはらい、
そのまま私のトレイに載せてくれた。
(これが落ちたのはあなたが不意に現れたからよ)
な〜んて言葉は呑み込んで、私も無言でレジのカウンターにトレイを置いた。

いろいろなことがあった休日出勤の帰り道は、
とにかく疲れている。

2004/06/25 (金)  雨  ときどき  曇り





暑さの後の雨。
ちょっとホッとする。

よそ様のお庭を拝見しているとラベンダーの花が咲いていた。
挿し芽で増えるのだそうで、数鉢並んでいた。

「よろしかったらどうぞ」
と言われて頂いてきた。

ベランダに置いたラベンダーの鉢から好い香りが漂う。
こんな何でもないことが、そこはかとない幸せをもたらしてくれる。
ちょうど、猛暑の後の雨のような。

あれっ?「ベランダのラベンダー」?
ふと気がついて頬がゆるむ。

あれもこれも「まっ、いっかー!」

2004/06/23 (水)  晴れ





また子どもによる子どもに対する犯罪が報じられました。


花は
居場所を与えられ
太陽と水と土に育まれ
はじめて
天に向かって
のびやかに
美しく愛らしく
花開く

そのどれひとつが欠けても
花は満足に咲けない

居場所は、こころとからだを預けられる所
太陽は、周囲の温かいまなざし
水は、過ちなく生きぬくための知恵
土は、健やかな体を作る食べ物

子ども達よ、あなたたちが咲くために
今、何が欠けているのでしょうか?

2004/06/14 (月)  晴れ





私は、幸か不幸か【人間】としてこの宇宙に存在している。
したがって今のところ【人間】としての意識しか持ち合わせていない。

人間が便宜的に定めたいわゆる【動物】【植物】という分類に属する生命体に
自己を客観的に捉える意識が存在するか否かは知らない。
しかし、人間にはこの意識が存在する。

自己を客観的に見つめようとする時、
ある人は身近な他者との比較や他者の言葉で己の姿を描こうとする。
またある人物は過去の歴史の中に定まった事柄や人物を参考にして己を考える。

そのどちらかが正であり他方が誤であるとは言えない。
ただ、前者は「揺らぐ」ものであり後者は「固定」したものだとは言えよう。

一旦「揺らぐ」価値観に囚われてしまうと、そこから脱出するには相当の労を要する。
一方、歴史の中に「固定」した価値観というものは振り払おうと思えばた易く振り払える。
前者は常に周囲で息づいているものであり、追いかけたり追いかけられたりという動的な要素がある。
後者には生々しい意識は失せ、今や静的な観念に昇華している。


(科学の世界では錘(おもり)をつけた糸の方向を鉛直と言い、
重力と引力の影響を受けてその示す方向は地球の真中心から少しばかりずれるのだという)

私は心という空間に、価値観という錘を意識という糸で垂らしておこう。
その「錘」には、人間の歴史の中に位置を定めた価値観を選びたい。
現在の人間関係の中で揺らぐ価値観の影響を受けて多少のずれを生じるかも知れないが、
「錘」は常に中心を求めてまっすぐに垂らしたい。


このように抽象的なことを考えられるのは私が人間である証拠であり、
人間であるならば考えることからは逃れられないし逃れてはならないと思う。


インターネットが関わるさまざまな事件に心痛みながら、
自分はどのような心構えでネット社会に向き合おうかと考えてみた。

2004/06/12 ()  晴れ  ときどき  曇り





両親が高齢になってから生まれた私は、
若々しくて無理の利く親の姿を見ることは少なかったような気がする。
早くから親の加齢に付き合いながら育った。

「加齢とどう付き合うか」に関する本が数多く出版されている。
少し前までは、あまり関心も無く過ごして来た。
気力で乗り切れるのではという根拠のない自信も微かにあった。

昨日の夜の飲み会では幹事を務めた。
久しぶりに少し多めのアルコールを頂いた。
深夜までカラオケにお付き合いした。

そんな一つ一つは昔と何ら変わらぬのに、
翌日に残る疲れが違う。
もう無理は利かないと思う。

無理は利かないと自覚する頃になって、
公私ともにやたらと忙しくなっている。


『子の曰く、吾れ
  十有五にして学に志す。
  三十にして立つ。
  四十にして惑わず。
  五十にして天命を知る。
  六十にして耳順がう。
  七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。』
                (為政編)

  わたしは十五歳で学問に志し、
  三十になって独立した立場を持ち、
  四十になってあれこれと迷わず、
  五十になって天命(人間の力を超えた運命)をわきまえ、
  六十になって人の言葉がすなおに聞かれ、
  七十になると思うままにふるまって、
  それで道をはずれないようになった。     

 『論語』  孔子



自然の成り行きに逆らわず、無理をせずに過ごさなくてはと思う。

2004/06/10 (木)  曇り





疲れちゃったよー!早く金曜日の夜になってよー!
えっ、でもちょっと待って。
一日が、一週間が、一ヶ月が、一年が、
早く過ぎればそれだけ年取るのも早まるってこと?

当たり前のことなんだけれど、改めてじっくり考えてみると恐ろしい。

「早く、早く、一刻も早くこのしんどい時間が過ぎ去って欲しい」
まさにその時には目前のことしか頭に浮かばなくなる。

急いで慌ててパッパパッパと片付けて、
気が付いてみると、
自分は一体何をやっていたのかということになり兼ねない。

せっかちな私の毎度の反省。

スローテンポでのんびりと。
じっくりコツコツ積み上げなくっちゃ、私の後半生。

2004/06/09 (水)  曇り  低温





「親の言葉とナスビの花は 千に一つの無駄も無し」
ちょうど今、本格的な農家の畑にも素人の家庭菜園にもナスビの苗が植えられる頃。
咲いた花は無駄なく実になるというナスビのごとき人生であれば、
もっと易々暮らせたかしら・・・と思ったりして、独り苦笑い。

ま、ナスビも花が咲かなければ実はつかないわけで、
どれだけ多くの花を咲かせるかは個別の苗の基礎体力次第。
少ない花つきでも、大きな実に実らせるという選択肢もある。

何となく、ナスビと我が人生を重ね合わせてみたりして・・・

実はこのところ英語を使わざるを得ない状況に身を置いている。
片言英語でお茶を濁した独身時代の職場を離れて30年、
今はもう英語をキチンとやり直そうとする意欲も気力も薄れてしまっている。

記憶力は衰え頭の回転が鈍くなっているこの年齢であっても、
必要に迫られると、まだ何とか使えるものだなあと、
その昔、若かった頃に身に付けたことのありがたみを感じている。

というわけで、冒頭のことわざ。

人生のそれぞれの場面で身につけたことはいつ何時どんな場面で役立つかも知れず、
経験とは、親の説教やナスビの花に同じく
そのひとつひとつが無駄にはならないものらしい。

2004/06/07 (月)  雨  のち  晴れ





じごくごくらくどこにある
よみのせかいをさまようて
かえってきたひとありはせぬ

じごくごくらくどこにある
とうてみたとてせんなきと
ひとりごちたるつきあかり

じごくごくらくここにある
こころころころころがして
くうねるたつきをなすところ

2004/06/06 ()  雨    関東地方梅雨入り





長引いた風邪のせいでご無沙汰していた農業ボランティアに行って来た。
いつも温かく迎えてもらい、ささやかなお手伝いをさせてもらっている。

ボランティア活動への何よりの報酬は(お金)でも(品物)でもなく、
「助かりました、ありがとう」の一言と笑顔に尽きる。

こちらとしては好きで志願してやっていることなので、
唯一の気がかりは自分の行為が相手に迷惑がられないことのみ。

午前中で仕事は打ち切り、
午後からは市内に新しくオープンした地元農産物直売所に出かけることになった。

ボランティア受け入れ農家の奥さんと娘さん、
そしておばあちゃんとご近所さんも誘って賑やかに店内を見て回った。

故郷を遠く離れて暮らす私には、
まるで親きょうだいと触れ合っているようなこのお付き合いは
何ものにも替えがたく貴重な人間関係に思える。


2004/06/03 (木)  晴れ





信じたくない事件がまた一つ現実となった。

今やインターネットが生活と切り離せない道具となった社会への問題提起にしては、
あまりにもむご過ぎる事実である。

私は二つの疑問を持っている。
一つは早期の英語教育推進。
二つ目は小・中学校でのパソコン一斉教育。
このどちらも意思伝達の“道具”として使われる。

“道具”はそれのみでは意味を為さない。
そこに人間の意思が込められ、
他者に過不足なく意思が伝えられ、
互いに何らかの満足感をもたらしてこそ
その道具を使いこなしたと言えるのではないだろうか?

そう考えてみると、
重要なのは“道具”を使う人間のあり方だと思う。

英語が操れたとしても「何を話すか」が問われるし、
パソコンでインターネットにアクセスできても、
そこからどんな情報を選択取得するか、
何をどのように発信するかで結果は大きく異なってくる。

昨今のインターネット絡みの事件やトラブルを見聞する度に、
“道具”より“人間”の再構築推進の方が先決問題のような気がしてならない。