2004/04/29 (木)  晴れ  湿度極端に低し(一時9%)     みどりの日





二十一世紀を迎える直前に、
「ノストラダムスの予言」の中の(世界の滅亡)の個所が取り沙汰された時期があった。
予測された年を通過して、今なお人類は滅亡してはいない。
しかし、ここに至って世界の情勢は厳しさを増していくばかり。

人の不幸は、
(眼前に無い物や事を想像する力)を持ったことに始まるのかも知れない。

植物に考える力が備わっているのかどうかは知らないけれど、
植物はひたすら大地から水分と養分を吸い上げ、
大気と日光の中で生長し枯れて行く。

動物もまた、ひたすら餌を食み活動と睡眠を繰り返して命を全うする。

植物も動物も、
理屈を弄ぶわけでなく生存の意味を問うて思い煩うわけでもなく、
与えられた環境の中、
淡々と生き、そして消えて行く。

この広大な宇宙に散在する星々の中でも、
地球と言う稀有な星に生まれたことを自覚してしまった人間は、
その欲望を無限に募らせて、
眼前に在るものやできごとに満足せず、
空想の力が生み出す【幸い】を追い求め続けるのだろうか?

メーテルリンクの「青い鳥」を引き合いに出すまでもなく、
幸せ探しはまず足元からと、
昔々から書き残されているというのに。

2004/04/24 ()  晴れ  強風  低温





窓から差し込む明るい日差しがありながら寒い。
4月というのに夏日を記録したり、
寒の戻りのように冷え込んだり、
気持ちと体はついて行けなくて、
とっくの昔に置いてけぼり。

所詮はこんなものかと諦めつつも、
いやいやまだまだと思いたい気持ちを捨てきれず、
闇と明かりを行ったり来たりの毎日。

大きく望まず小さく完結していくことが、
結局自分を生かし救う道だと考え直す。

2004/04/23 (金)  曇り ときどき 晴れ  夕方 一時雨パラつく





桜と言えばソメイヨシノ。
開花宣言の基準もこの花の開花による。

このソメイヨシノが全国で枯れ始めているのだそうだ。

ソメイヨシノは江戸時代に作られた新品種で、
本来の桜ではないことは何かで読んで知った。
新株を作るには接木によるそうで、
言ってみれば全国のソメイヨシノは種木のクローンと言える。
多品種と交配せずに、常に同じ遺伝子で生命体が増殖していくとどうなるのか、
動物ではいまだ追跡のデータが少ない分野と言えそうだ。

この問題を取り上げたテレビ番組NHK「クローズアップ現代」を観ながら、
いろいろと考えさせられた。

私が中学生の時、
村の山に植えられた桜の手入れの為、勤労奉仕作業に駆り出されたことがある。
そこは中学生のすること、半分は行楽も兼ねた奉仕学習だったのだろう。

その時のことが未だに記憶に残っている。
中でも桜の木に発生する「テングス病」という名前が、なぜか忘れられない。
私はそれ以来、桜の木を見ると「テングス病」に罹った枝が気になってしょうがない。
その勤労奉仕作業を指導して下さったどなたかが、
「このテングス病になった枝は切り落とさないと花つきが悪くなります」と教えてくださった。
日本人の心として愛される桜は、こうした日ごろの手入れの賜物だったのだ。

今、学校では【生活科】だとか【総合学習】だとかが奨励されているらしいが、
そんなことは私の子供時代すでに当然のこととして為されていたのだとわかる。
いつの頃からか机上の学問のみを偏重するようになり、
現実や自然から学ぶことから遠ざかっていったことへの反省を深める時だと思う。

現実や自然と関わろうとすれば、怠惰ではいられない。
その両者とも常に流動変化しているものだから、
常に「目を掛け、手を入れ」なくてはならない。

枝ぶりの良い桜が満開になっているのを見るのは好ましい。
ところが最近、不細工に枝がバッサリ落とされている木が増えた。
電柱や電線の邪魔になるとか駐車場の車に花びらが落ちて困る、
といったことが原因で全体のバランスなど関係なく、枝が切り落とされてしまうらしい。

自然を生活に取り入れようということで公園や並木に樹木を植えるのは良いが、
その樹木が年月経て大きく育った時に、
生活との兼ね合いで思わぬ問題が発生することもある。


支離滅裂に考えが飛躍していくが、
要するに、
ソメイヨシノに限らず、
自然と共存し、
愛し愛される為には、
常に「目を掛け、手を入れなく」てはならないということが言いたかっただけ。

2004/04/17 ()  晴れ





静岡では30度を越す暑さだったとか、
春とは言えない気温の高さに驚く。

近くの農業公園ではチューリップの花が満開だと、
メディアで報じるので観光客がどっと押し寄せる。
お陰で近所の住民はこの時期、車での外出ができない。

この地域では一時期のことだけれど、
観光地に住む人にしてみれば、
これが毎日のことだろうと思うと、その大変さが想像できる。


最近つくづく感じることだけれど、
社会生活における最低限の礼儀や道徳を守れない人が増えている。
呆気に取られて、無礼をされた側が身に覚えの無い罪悪感や不快感に悩まされる。

礼儀や道徳の発する基本の感情は「相手への敬意」だと思う。
また、自分を大切に扱って欲しいと望むなら、
自分がして欲しいように相手に対して振舞わねばならない。

人間同士の心と心の間の溝が、どんどん深まっているような気がする。

2004/04/10 ()  晴れ





私は母親として
よそ様の庭先で燃え盛る焚き火に向かって
我が子が無用に手を伸ばそうとすれば
その手を打ってでも
火中のクリは拾わせない

焚き火に投げ込んだイモやクリも
炎が盛んな間は拾えない
物事を為すには時機がある

あえてそこに手を突っ込む行為は
勇気とは呼ばない
後先を考えずにとる行為は
蛮勇としか呼べない

それでもなお万が一にでも
我が子が火傷を負ったなら
それはそれで
親の不注意我が子の不明

火傷をせぬように
不用心にして傷つかぬようにと
危うきことを危うしと
教え諭すのが親だと
私はそう考えている


2004/04/03 ()  晴れ





望んでいないにも拘わらずやって来るものはうっとおしい。
「招かれざる客」という名画も、その昔あった。

私にとって最近の「招かざる客」は迷惑メールとウィルス・メール。

ここ二週間ばかり、Net Sky ウィルスに感染した誰かのパソコンからアドレスを拾い、
ウィルスが勝手にメールを送ってくる。
幸い私のパソコンにはウィルス対策ソフトがインストールしてあり、
まめにアップデートを心掛けているお陰で、これまで感染の被害をこうむったことはない。

「感染している人、早く気がついてよー!」とひたすら願うのみ。
以前は、数ヶ月に渡ってウィルスによるメールに悩まされたことがある。

また、パソコンを始めて三年近くになるが、その間免れていた迷惑メールも届くようになった。
携帯電話にも迷惑メールが入るようになって、先日アドレスを見直したところだ。

なぜアドレスが知られてしまうのか?
パソコンに疎い私には分からなかった。
ところが、つい二・三日前テレビニュースでその問題を取り上げていて、
アドレスがどんな方法で集められ利用されているかを知った。

なんでも、Eメールアドレス収集の為のソフトを¥12000−程度で売っているらしい。
そのソフトは、あらゆるサイトから勝手にアドレスを集めてくれる検索ロボットだという。
こりゃあ適わない!!

ヤレヤレ・・・
今日も着信メールリストからウィルス・メールと迷惑メールを
せっせと削除している私でございます、トホホ。