2004/03/31 (水)  晴れ





ちょっと疲れて人生スローダウン。

これまで「痴呆は治らない」と思われてきた。
しかし今日の新聞を読むと、
浜松の病院の医師が「痴呆の予防医療」を実践されているという。

痴呆とは脳の怠け状態であるから、
常に何らかの刺激を与えて活動させることで痴呆を予防しようということだそうだ。
何気ない日常会話や行動に簡単なゲームの要素を取り入れて、
常に考える機会を持つことが有効なのだと書いてあった。

そんな記事を読みながら、思い当たることの多さに冷や汗が出てしまう。
そう言えば、『感動』の二文字とも縁遠くなってしまっている。
物覚えはもちろん思考力さえ鈍っていることは明白な事実。

アブナイ、アブナイ

2004/03/23 (火)  曇り  ときどき  小雨





その時は絶対に来るのだから、あえて考えるのは止そうと思う。
と思いながら、それは常に私と共に在り、
どんなに忘れようとしても忘れることはできない。

“それ”とは“死”

死者の弔いの報に接すると、まつわる思い出は否応無く脳裏を駆け巡る。

いかりや長介さんが亡くなった。
「8時だよ、全員集合!」というテレビ番組に思い出を持つ人は多い。
俗悪番組だと酷評されながら、根強い人気のあった番組だった。

今になって、あのコントの裏に隠されたあれこれを聞かされると、
改めてその偉大さに驚く。

先駆とは常に叩かれるものであり、
叩かれても尚、持続させてこそ先駆なのだろう。

私は一度だけ、いかりや長介さんを街で見かけたことがある。
夫の入院していた病院の玄関を出た所ですれ違った男性、
それがいかりや長介さんだった。

そこには私と彼しかいなくて、
すれ違った瞬間「アレッ、どこかで見たような・・・?」と思ったけれど、
いかりや長介さんだと分かったのは、お互いにすれ違った後だった。
テレビの画面と変わらぬ飄々とした雰囲気を漂わせて病院の建物に入って行かれた。

あの人が逝きこの人が逝き、
生きてきた道程で影響を受けた懐かしい顔が次々に彼岸に旅立って行く。

訃報に接する度に
「あなたもしっかり最後まで生ききって下さい」
というメッセージを送られているような気がする。

2004/03/19 (金)  晴れ





自分の想いに偽りは無い、
そう堅く信じているはずなのに
何故悩むのだろう。

「他人(ひと)の反応は自分を映す鏡だから」と言った人がいる。
ならばあの、凍りつくような仕打ちはすなわち、
「わたくしのこころ」を映し出していると言うのか?

事の成り行きも理由も訊かず、
突然やって来て、いきり立ち責めたてられても呆気に取られるばかり。
事の真相が誤解から生じていたことが判明しても、
謝罪の言葉すら言えない相手を前にして、
たゞたゞ虚しさばかりが募ってくる。

年月を重ねただけの『子ども』、そうとしか表現ができない。
いえいえ、それは本当の『子ども』に失礼な言い方かもしれない。

些細な誤解から生じた不手際は、
結果的にはさほどの失態ではなかったにもかかわらず、
あれほどの剣幕で責めたてる相手の根拠が不可解。

がしかし、あの姿が、
同じ場所を共有している「わたくし」を映している鏡だとすると・・・・・
私の気持ちは暗く塞がる。

こちらに誠意があるつもりでも、
それが相手に理解されなかったり伝わらなければ、
結局のところ、
自分が誠意だと信じていた行為や想いは雲散霧消してしまう。

自らを信じたいと念じながらも悩むのは、
どこかに迷いの霧がかかっているような気がする。


ぎゃてい
ぎゃてい
はらぎゃてい
はらそうぎゃてい


心も体も、なかなか『空』にはなり切れない凡夫の「わたくし」。

2004/03/12 (金)  曇り





寒い季節だと最初から覚悟していれば耐えられるものを、
そろそろ暖かくなる頃だという期待があると、
少しの寒さにも不満を感じてしまう。

人間関係もそんなものかも知れない。

優しいはずだ、心得ているはずだと勝手に思い込んでいれば、
ちょっとした仕草や言葉の冷たさに出会った時の衝撃は大きい。

どんな人でも、最終的には自分のことで精一杯。
特にこのご時世、人の立場や感情に配慮しなければと思う人は、
いったいどれほどいるだろうか。

寂しいことだけれど、それは仕方の無いこと。

ただ、
あまりにも自分の見栄にこだわり、
自分だけは楽を決め込もうとする人が人の上に立つと、
順調に運ぶはずのことも停滞し、人心は荒んで来る。

そういう人を頂いた場合には、
「寒い季節なんだから寒くて当然なんだ」
と早めに覚悟を決め、自衛のオーバーを羽織って過ごすしかないのだろう。

2004/03/08 (月)  晴れ





人の意識というのは、それを宿す固体が異なれば全く同じということは“絶対”に無い。
となれば、如何に似ていようが共感する部分が多かろうが、
その意識の拠って立つ根本は共通しない。

つくづく人間関係とは誤解の上に成り立つものだと思う。

“正”の方向に解釈すれば物事スムーズに運ぶことでも、
邪な感情に動かされて“負”の方向に心を彷徨わせれば、
必ずやその先には悩み苦しみ恨み辛みが待ち受けている。
こうして人は迷いの闇に分け入っていく。

信念という幹に誤解という名の冷たい雪が降り積もっても、
幹が太くしっかりとしていれば、その木は折れない。
頼りなく柔な幹であれば、雪の重みで折れたり曲がったりしてしまう。
たとえ細い幹でも、しなやかであれば雪が融けると元通りまっすぐに戻り、
以後は以前にも増して強く成長していける。

生きていれば“正”ばかりでもいられない。
が、ものごとに “正” “負” の選択の余地があるならば、
多くの場合 “正” を選んで前進して行きたいように思う。

2004/03/07 ()  晴れ  寒かった





春になると必ず、スイートピーの花を飾りたくなる。
店先にこの花を見つけると、ついつい買ってしまう。
スイートピーとスズランは、花束にすると可愛らしい。
薄いピンクと紫色のフリルのような花びらを見ていると、なぜか幸せ。

一生のうちに出会う人の数は多いけれど、
自宅に招きたいとまで思える人はそうそういない。
今日はその「信頼するに足る友人」を二人自宅にご招待して楽しいひとときを過ごした。
疑心暗鬼の横行するこの時代にあって、
心許せる誠実な友を得ることができたことは、何よりの喜び。

花瓶に活けたスイートピーの花と友人たち、
どちらも優しい。

2004/03/03 (水)  曇り  寒かった





新聞に折り込まれた旅行の広告を見ていたら(シングル可)の文字に目が止まった。

もともと一人で行動することの多い私がツァー参加しようと思えば、
部屋は見知らぬ人との相部屋か
追加料金を払って一人部屋を確保するしか方法はないことが多かった。
今日の広告を見て、一人参加でもツァーに受け入れる方向になったのだと知った。

最近は一人行動をする女性が増えてきているという新聞記事も読んだ。
お酒や料理を楽しむ為に、ふらりと一人で入れるお店も増えてきているのだという。

ちょっと前までは、私が一人で映画を観に行くと言うと、
「私は一人で映画館に入れない」という女性が多かった。
私には、それが不思議で仕方がなかった。

自分の好みで自分の時間に浸りきるには『単独行動』が一番だと、私は思っている。
誰かと一緒だと、どうしても同行者に気を遣い、
余分なお金を使ったり、興味のないことに時間を費やしたりと不本意なことが重なり、
結局はリフレッシュできない場合が多い。

思索や発見にしても、
単独行動であれば連れの影響を受けずに独自のものを積み重ねることができる。
そしてそれが結果的には個性を磨いてくれる。
そうした個性を積み重ねた人との会話は刺激的で楽しい。
単独行動を常とする人は、同じく単独で動く人を束縛しない。
一人の時間の大切さをお互いに知っているから。

自分を殺して他に同調するのではなく、
自分を生かして他と対等に渡り合う為の自己の充実には
単独行動できることが非常に重要なことだと思う。

そういう流れになって来ているとは、嬉しい限り。


2004/03/02 (火)  曇り  ときどき  晴れ





納豆をかき混ぜながら考えた。

硬い大豆は藁すぼにくるまれて納豆菌の作用で熟成する。
藁すぼから取り出したばかりの納豆は、まだ一粒一粒が独立して存在している。
それを箸でグルグルグルグル掻き回すと、
納豆は次第に強力な粘りと糸でつながってくる。

いまこの国の人々は硬い大豆か掻き回す前の納豆なのかも知れない。
そこに二本の箸を突き刺してグルグル掻き回せば、
強力なつながりで繋がれるのかも知れない。

誰が、何が“箸”なのか?
旨みと粘りを備えた人々に、
より強固なつながりの糸をひかせるのは、
どんな“箸”なのか?

たかが納豆、されど納豆、
こじ付けかも知れないけれど、
こんなことも考えてみたくなる昨今。